本書には『ひかりのあしおと』と『ギンイロノウタ』の2編が収録されている。
『ひかりのあしおと』
大学生の「私」と父は、共に暮らす母を「愛菜ちゃん」と呼ぶ。少女のような純真な言動で周囲の注目を集める「愛菜ちゃん」の愛らしさが完璧であるほど、不気味な違和感は匂い立ち、それが全く違うタイプである娘の「私」にも、別の形の歪みとして受け継がれていることが推測される。これは、母から永遠に逃れられない娘の話。母が歳をとらず、永遠の少女であり続けたら、娘はどこへも行けないだろう。怖い。
「友達を作るのはあれほど下手なくせに、私は恋人を作るのがとても上手でした。わけがわからないまま、すぐに胸が高鳴ってしまうのです。中学校二年生のとき、塾の講師と初めてレンアイの関係になったときは、うれしさでいっぱいでした。誰にも感情を表現したことがない私の、初めての排水溝だったのです」。
排水溝という言葉にはショックを受けたが、これは、液体のモチーフがちりばめられたこの小説の最初の伏線にすぎない。「私」はレンアイへの暗い情熱を秘めたファムファタールだが、途切れることのないレンアイは「恋愛体質」というような軽い言葉で自慢げに語られるような種類のものではない。「私」は、ある恐怖を打ち消すために、レンアイへの拒否感情を抑えてまで不毛な関係を繰り返しているのだ。
「このように当たり前に誘われるのは、私が誘っているせいに他なりません。私のような、いつも閉じて押し黙っている人間が少しでも気を許すということは、それだけでほとんどボタンを外してしまっているのと同じ意味を持つのです」。
大学で出会った蛍という男には、ごく普通のまともさが感じられ、私のエキセントリックなキャラクターや早急な誘い方の異常さはいっそう際立つのだが、彼の登場がきっかけで「私」はあることに気づく。かろうじて健全な小説になっているといえるだろう。だが、2編目の『ギンイロノウタ』は、それほど甘くない。
『ギンイロノウタ』
「少なくとも、子供のころの私は、臆病で愚鈍な、“化け物”には程遠い子供だった」。
ごく普通の幼稚園児の家庭生活の中に、あらゆる問題の芽は潜んでおり、少女であることの日々はかくも拷問だったのか、と身につまされる。この小説の母は、冷たい父に対していつもびくびくしており、そんな態度が明らかに「私」へと投影されていく。
「母はとても優しい声で私の身の回りのいろいろなことをしてくれるが、母の手のひらはとても正直で、乱暴に私の上着を丸めたり、力任せにめくられた幼稚園の連絡ノートの端がしわくちゃになっていたり、必要以上に力がこめられている痕跡があちこちに残っていた」。
少女のセクシャルな感覚は、不自由さから逃避するための唯一の通気孔かもしれない。未知の世界、未知の感覚への憧れ。大人になればそこへ辿りつけるというかすかな予感。それは本能なのだから確信だ。「私」は女の身体の価値を早い段階で知り、それを切望する。しかし変化はなかなか訪れず、小学6年の時には、着替えを覗いていたクラスの男子に「ねえ、私の着替え、見せてあげよっか?」と申し出るものの「土屋さんのは、やだ」「なんか、気持ち悪いから」と言われてしまうのである。その後「私」は誓う。「価値が低いなら私は安さで勝負するしかない。私は誰よりも私を安く売るんだ。そして誰よりも喜ばれて見せるんだ」と。中学生になり、同性から無視される暗い「私」は、明らかに身体目的の先輩男子に目をつけられるが、その時も「ずっと待っていた“安売り”をするチャンスが訪れた」と思うのだ。
少女を狂わせるのは、レンアイの簡単さと不器用さだ。レンアイが簡単であればあるほど、器用に生きることは困難になってゆく。性から始まる関係が心を踏みにじるのはよくある話だが、その最も悲劇的な形が容赦なく描かれていて秀逸。親しい肉親にも、親しげに近づいてくる男にも、行為と感情にはズレがあり、そのギャップが不自然であった場合、醜さをダイレクトに浴びた少女の目には、すべてが歪んで見えてしまうだろう。世の狂気を鋭敏に察知し、シュールに増幅してしまう装置、それが少女なのだ。
高校に入り、初めて「私」が教師にほめられる場面には、一瞬ほっとする。
「ひょっとしたら、自分は、今まで努力していなかっただけで、本当はやればできるのではないか、そんなことが胸をよぎり、私は興奮していた。自分はどこにも就職口などなく、ずっと家に居続けるのだろうと思っていたが、それは気のせいで、ひょっとしたらきちんとお金を稼いで、普通に生きていくということができるのかもしれない」。
コンビニでバイトを始めた「私」には、さらなる悲劇が待っているが、複雑な仕事や人間関係を最初からスムーズにクリアするなんて、そっちのほうが異常なんじゃないかと思う。ある種の鈍感さ、無邪気さ、器用さ、運のよさがなければ世の中に適合できないなんて。
そこからクライマックスまでは一直線だ。殺しへの欲求などという安易な言葉では括れない壮絶なリアリティで、小さなトラウマの積み重ねを完全な狂気へと導いてしまう。少女時代から紡いできた妄想の結実であるグロテスクな衝動は、美しい整合性と、氷の塊のようなじゃりじゃりした感触をあわせ持つ。
女は、早い段階で母親から逃れたり、まともな男に出会ったりしないと大変なことになる。というリアルな現実を描ききったこの小説を読むと、自分も含めた女たちは、よくもまあ、少女時代をサバイバルして大人になったなあと思う。それは奇跡に近いことで、こんな時代が自分にもあったのかと思うと、少女であることも、女であることも、母になることも、まるごと全否定したくなる。でも、そんなもん、否定したっていいんじゃないか? もっと面白いもの、いいもの、誰も知らないものを探すために生きていこうと思える。
『ひかりのあしおと』も『ギンイロノウタ』も、破壊への衝動が、視覚イメージ(ひかり、ギンイロ)と聴覚イメージ(あしおと、ウタ)へと昇華している。文章には収まりきらない、自由への叫び。ひとつの性、ひとつの役割から自由になるのは、それほど大変なことなのだ。
1979年生まれの著者の内面に重く横たわり、内臓を巣くっているのであろう真実の塊は、今後も、容易には解凍しないだろう。