先日「週に何日ジーンズをはくか」という話になり、そこにいた年齢も職業もばらばらの5人の女が、直前1週間の実績を申告したところ、最もフェミニンでおしとやかなタイプと思われる女が「7日」と答えたのには驚いた。ジーンズ頻度がいちばん低かった女は「3日」であり、あとの3人は「4日」か「5日」であった。えー、みんなそんなにジーンズばっかりはいてるわけ? と、私は、そこに含まれている自分のことは棚に置いて驚いていたわけだが、ジーンズは今、間違いなく女のファッションのデフォルトになっているのである。
要するに、スカートをはく日のほうが、明らかに特別ってことだ。はっきり言って私自身「スカートがなくても困らない」と思うが「そこをなくしたらおしまい」という気持ちがあるのも確か。「今日スカートじゃん。珍しいね」と言われることは多々あり、ちょっとやばいかなあとも思うが、おそらく多くの女が、スカートをはくたびにそういうセリフを浴びているはず。「女装する女」という本書のタイトルは、そんな私たちの複雑な思いをやさしくフォローしてくれる。
女を忘れている状態というのは、女にとって、もはや普通の状態であるということを本書は明らかにした。「さあ、女装しよう」と気合いを入れる状況は確かにあり、そこに「ちょっと面倒だな」という気持ちが入っていることは否めない。コンサバなスカートをはき、薄手のストッキングをはくことは、多くの女にとって、もはや和服を着るような次元なのだ。しかし、それではあまりにやばいという感覚が残っているからこそ、私たちは、スカートでもジーンズでもない中途半端な服に手をのばす。たとえば今、ロング丈のニットやブラウスは、臆面もなく「ワンピース」とか「ドレス」とか呼ばれ、レギンスやスパッツやタイツといった「疑似ストッキング」とコーディネートされる。こういうどっちつかずの「男ウケの悪いファッション」が流行るのは、本格的な女装も面倒だし、ジーンズばかりと思われるのも面倒だわという女たちが増えているからだと思う。
本書に登場するのは「女装する女」だけじゃない。「スピリチュアルな女」「和風の女」「ノスタルジー・ニッポンに遊ぶ女」「ロハス、エコ女」「デイリーエクササイズな女」「大人の女になりたい女」「表現する女」「子供化する女」「バーター親孝行な女」という、めくるめく章立て。さあ、あなたはどれ? 美容への探求心の強い京都の友だちにちらっと見せたら「和風の女」「デイリーエクササイズな女」あたりに反応していたようだ。
著者はこんなふうに書いている。「さまざまな例として登場してくる女性たちは、すべて著者自身が実際に交流したり、話のネタとして話題に上がったりした、リアルな存在である。これは私が日々行っている毎週末の活発な飲酒活動や、お誘いがあるとつい出向いてしまうという大変に尻軽な行動の数々から得られた実感の集大成といってもよい。いわば、自らで飲み代とタクシー代を払って、某大かつ広範囲のマーケティングを行ってきたとも言えるわけで、女性たちが盛り上がる話題をフリ続けてきた努力のかいがあったというものだ」
あまりの強者の多さに「彼女たちは自分とは違うグループの女たちだな」と感じる部分も多いが、それこそが本書の効能だ。サンプルを見せられることによって、自分の知っている別のサンプルを追加したくなる。つまり、著者が主催する飲み会に参加している気分になるのである。彼女はきっと、私という微小なサンプルにもやさしく耳を傾け、話を聞いてくれるだろう。
著者自身も、友人の一人にビールをつがれながら心底暖かい笑顔で「仕事がんばってね。生き生きしているユヤマは絶対カワイイよ!」などと言われ、女たちが通いたいと思うスナックの構想が頭をよぎったそうだが、本書に手を出すこと自体が、スナックの扉を開けるようなものだ。「スピリチュアルな女」の項には、占い師のもとに通ったり、買い物に夢中になったり、ホストクラブに通う女は、他人が自分のことだけを考えてくれる甘美な時間を求めているのだという鋭い分析がある。「恋愛のラブラブ状態とは、他人がこういうことを無償でやってくれる快感にほかならない」のだが、現代は恋愛が困難な時代であるから、このような擬似女王体験サービスが栄えるのである。