読む前から感動していた。
萩原朔美は、両親が離婚し母親である萩原葉子が文学の道に入り小説を書くようになる姿をだれよりもよく見ていただろう。若いころには他人には伺い知れない萩原葉子の個性、そんなものとも戦ったにちがいない。萩原葉子のことは、きっと萩原朔美が書いてくれる、そう思っていたのだ。それまで読んでいた本を閉じ、横に置き、萩原朔美の文章を読み始めると、萩原朔太郎の妻であった稲子のことなどを思い出し、まるで萩原葉子の『父・萩原朔太郎』をも読み返しているような、そんな気持ちになった。
萩原葉子が、父、朔太郎のことを書いたのは、昭和32年、葉子37才のときだった。近くに住む批評家、山岸外史の勧めで、同人雑誌『青い花』(二次)に、ぽつりぽつりと書き始めたのだった。その文章は、筑摩書房で単行本化され、そのあと角川文庫に入った。またさらに加筆推敲があり、「父の遺品」八編を追加収録したのが、中公文庫の『父・萩原朔太郎』である。萩原葉子が父を思い出す文章は、これを書かなければ前に進めない、生きていかれない、といった緊迫したものだった。
萩原朔美が母のことを書いたのは、これが初めてではなかったという。そのときのこともその文章も引用してあるのだが、面白いのは、その文章に勝手に書き加えた母葉子の文章だ。自分の都合の悪いことのあとに、言い訳を書き足すのだ。これでは書く気がしないだろう。実際それで朔美は書くのをやめてしまった。そのときの萩原葉子の言葉が、「死んだら何を書いてもいいわ」だった。
萩原朔美が中学生だったとき萩原葉子は執筆に集中するため家を出てアパートでのひとり暮らしを始めたという。朔美は家で祖母と叔母とで暮らすようになる。それ以後萩原朔美が五十代後半になるまで一緒に暮らすことはなかった。
萩原葉子が執筆に苦しむ姿を、萩原朔美はこの本のなかで何度も書いているが、小説を書いていこうと文章にかじりついている母親の姿は強くこころに残ったにちがいない。
私に意外だったのは、萩原葉子が朔美に萩原朔太郎のことをあまり話さなかったことだ。最後の作品も父のことを書いた『朔太郎とおだまきの花』(新潮社)だったのに。朔太郎のことはこころの核のようなところに奥深く仕舞っていたのかも知れない。
微笑ましいエピソードもあった。
例えば、森茉莉がときどき話したいことを一杯持って訪ねてきたという。文豪を父に持つもの同士のおしゃべりはいつまでも続く女子高生のようだったという。目に浮かぶような訪問だ。
また、萩原葉子は、それが何かを創り出すことなら、よろこんで資金援助したという。萩原朔美がジャズドラマーになりたくなってドラムセットをほしがったときも買い与えたという。その一方で、例えば、孫の七五三などには何もしない。あるいは萩原朔美が経済的に自立しても、それが創造と関係なければよろこばなかった。
その区別と徹底が面白い。
カバーに使われている写真は、萩原朔美が演出したときの天井桟敷の舞台でのものだが、萩原葉子の表情がとても素敵だ。