アカ呼ばわりされつつも学校でマルクス経済を学びながら将来を模索する島崎の姿は、当時の大学生にとってはむしろ平均的なものだったに違いない。経済的にあまりにも豊かになった今ではなかなか実感出来ないのかもしれないが、当時の日本はまだまだ貧しく、戦後の余塵を引きずっていたことを想像してみて欲しい。島崎の左翼的な主義主張なり行動原理を一面的だと批判することは簡単だが、そんな島崎が当時の大きな潮流であった学生運動のセクト主義とは距離を置き、彼らの集団主義を嘲笑する場面には、過疎地帯に生まれ育った者ならではの説得力がある。島崎は帰省時の列車でたまたま知り合った村田という同郷の年配前科者と犯罪コンビを組むほどの異端児であったのだが、飯場仲間である米村という若者の事故死に憤慨する場面などには、弱い者に対する優しい心の流れを感じてならない。
昭和39年当時の東京も実によく活写されている。高くそびえ立つ東京タワーや、ぐるぐると張り巡らされた首都高速道路は言うに及ばず、オリンピックに照準を合わせて進められた代々木体育館や武道館そして東海道新幹線の完成は高度成長時代の到来を告げるかのようであり、また旧財閥の解体やそれに伴う公団住宅の建設ラッシュも、都市人口の飛躍的な増加を予感させている。あるいは銀座を闊歩するみゆき族や、ラジオから流れてくるビートルズのロック・サウンドも、これから始まる新しい時代への希望に満ち溢れたものだ。しかしその一方では、ヒロポンを打つしかない労働者の過酷な日々や朝鮮人の裏社会が語られ、東京湾での漁業が静かに幕を閉じていく品川や大森といった湾岸地区の埠頭の光景が差し込まれるなど、どうやら主人公の目線はいつも低いところを彷徨っているようだ。
数回に及ぶ東京各地の爆破を経て、物語のクライマックスはオリンピック開会式当日を狙った国立競技場の襲撃へと向かうのだが、その直前に島崎と村田が潜伏する最後の場所は、皮肉にも“夢の島”だ。
「カモメの群れが、頭上すぐのところでホバリングしていた。(中略)島崎国男は、雨が上がった夢の島で、三百六十度のパノラマに浸っていた。通称『夢の島』は、正式には十四号埋め立て地という東京湾の人口島だ。毎日東京中からゴミがここに運ばれてくる。広さは見当がつかない。すべての五輪競技が一度にできそうだ。西の方角には、東京タワーが霞んで見えた。その右側は、できたばかりのホテルニューオータニだ。潮風が心地よい。聞こえてくるのはカモメの鳴き声と、飛行機のジェット音だけだ。」
主人公の諦観と孤独が張り付いているようなこの描写には胸が締め付けられてしまう。いつの間にか犯罪者の気持ちに肩入れしてしまっている自分に気が付くのは、優れた犯罪小説の証のようなものかもしれない。
物語は昭和39年の7月13日に始まり、10月10日のオリンピック開会式を頂点としながら、翌日の10月11日に幕を閉じる。わずか三ヶ月弱の間に東京で起きたこの一連の事件は、国家の威信によって決して表沙汰になることはなかった。しかし、何らかの形で事件と交差した人間たちは、まるで都市伝説を語るように、ある日ふと島崎国男という若き犯罪者のことを思い起こすのかもしれない。最後の章を締めくくる登場人物は、追われる犯人でも追い詰める刑事でもない。その人は、これから始まる若き自分を、東京や日本の未来を見つめている。その人もいつか引っ掻き傷のように、オリンピックの身代金を要求した島崎国男のことを突然思い出すのだろうか。光輝く季節の一歩向こう側には、無数の影がある。そんな東京という魔都を鳥瞰していくような物語の終わり方も、筆舌に尽くし難い。