早いもので今夏行われた北京オリンピックでさえ、記憶の彼方へと追いやられかねないような年の瀬だが、オリンピックという一大行事を素直に楽しめなくなったのは、一体何時ぐらいの頃からだっただろう。少しでも大人になって考えを巡らせてみれば、この大いなるスポーツの祭典が、国家や政治の介入はもとより、商業主義との妥協など様々な思惑に左右されざるを得ない現実に気が付かざるを得ないのだ。北京五輪の聖火リレーに関するいざこざを伝えるニュースを耳にしながら、自分がまだ無邪気だった頃の記憶と結び付いている東京オリンピックのことを思ったりもした。そう、昭和39年(1964年)に行われた東京オリンピック。小学校低学年だった僕はまだ白黒テレビでこの祭典を見ていたのだった。
そんな東京オリンピックがまさに開催されようとしている東京を舞台に据えたのが、奥田英朗の『オリンピックの身代金』だ。三年前の傑作『サウスバウンド』は、東京都中野区から遥か遠くの沖縄へと大胆に舵を進めた、荒唐無稽でありながらもロマンティックな考察に満ちた冒険奇談だったが、ここにまた饒舌な奥田節を堪能出来る力作が誕生した。そう言い切ってしまおう。堂々の521ページ。しかも二段組みという読み応えたっぷりの大作である。伊坂幸太郎も相当面白いとは思うが、奥田だって負けてはいない。
小説の骨組みはオリンピックを何としても成功させようとする国家と、開催を阻もうとする島崎国男という若きテロリストとの幾多に及ぶ攻防戦であり、まるで映画のような一大スペクタルが山あり谷ありで展開される。日付けを記した章立ても全部で56に及び、その章ごとに、刑事である落合昌夫をはじめとする警視庁、犯行を企てる主人公の島崎、島崎と同級生ながらもノンポリである須賀忠、島崎と僅かな接点がある小林良子という若い娘と、捉えていく視点がめまぐるしく入れ替わり、時間軸も微妙に行きつ戻りつを繰り返す。そんな意味では息をも付かせぬエンターテイメント巨編と言えよう。群れを好まずどこか虚無的に造形される島崎国男という主人公の姿は、ヤクザ映画の王道を踏襲しているようでもある。
犯人が最初から提示されているといった意味では謎解きの要素はなく、いわゆるミステリーを読む時との質感とは異なるのだが、それでも最後まで読み手を捕らえて離さないのは、島崎という男の背景にあるものが丹念に描き込まれ、犯罪に向かう動機が徹底的に凝縮されているからだろう。東北地方の過疎な農村に生まれ育った次男坊である島崎は、たまたま勉強が出来るという理由で東大に進学し、大学院にまで通っているインテリなのだが、出稼ぎ労働者として東京に出てきた兄を過酷な現場作業故のヒロポン摂取によって失ったことや、貧しいままの故郷を離れ上京してきたことをいつも負い目に感じ、自らに激しい肉体労働を課していく。
戦後の復興を果たし民主主義を謳っている日本とはいえ、搾取するばかりの資本側と、安い対価と引き換えに労働力を差し出すしかない声なき人々という関係は、戦前の国家主義と実はさほど変わっていないのではないだろうか。都会のめまぐるしい発展を支えているのは地方から出てきた労働者に他ならないにもかかわらず、彼らは永遠に奪われるだけの人生を過ごしているのではないだろうか。島崎の心を重く占めているのは、およそこのような現実認識である。輝ける光の一方には暗闇に消え入るだけの無数の影がある。そんな島崎の敵意がやがて、東京オリンピックという“輝けるもの”へと集約されていくのも不思議ではあるまい。作者は主人公の島崎にこんな台詞を言わせている。
「いったいオリンピックの開催が決まってから、東京でどれだけの人夫が死んだのか。ビルの建設現場で、橋や道路の工事で、次々と犠牲者を出していった。新幹線の工事を入れれば数百人に上がるだろう。それは東京を近代都市として取り繕うための、地方が差し出した生贄だ。」