朝、電車を降りる時、残り数十ページというところまで読んでいた。帰りの電車では読み終えてしまうことがわかっていて、どうしようかと思った。めちゃくちゃに面白いので、物語の最後は家でゆっくり味わおうかと思ったのだ。しかし通勤読書のベテランとしては「淡々と」読んで、感激して、読後感をしばし楽しんで、すぐ次の本にかかるのであった。
「大藪春彦賞受賞作」の時代小説、この賞では初めての時代小説だという。
中堅どころの商家で、堅実に商売を広げつつあるお店(たな)の主人が連続して殺される。殺される寸前、決まって二百両、三百両という金を用意して出かけ、斬殺され金が奪われる。そういう事件が何件かあって、それがぱったり止んでしまう。そのぱったりのせいであまり話題にならず、大勢の興味を引いてはいないらしい。しかし、おかしい、と気づく同心や岡っ引きがいて、「これは変だと思わないか」と相談されるのが主人公である。むろん捜査の協力を頼まれる。
んん、難しいなぁ。時代「ミステリー」小説なので筋を追って話を紹介しようとすると言ってはいけないところに触れてしまう。
とはいえ。
その殺人強奪事件が起きる時期と場所がある範囲に限られていることと、その前に必ずある場所にある男が現れることをやっとのことで掴む。
その調査に時間がかかるわけだが、そこのあたりを丁寧に語ってくれる小説である。一軒の店の主人が殺されたことで商売が駄目になってちりぢりになってしまった人を訪ね歩いて、殺される前にどんなことがあったかを丹念に聞き回る。主人家の者だけではなく、そこで働いていた人全てに影を落とすのが殺人だと語る。
どの場合も、主人だけが心得て話を進めていたので、番頭も奥方もほとんど何も聞いていない。しかし「まもなく大きな商売ができるようになって、店を大きくできる」というようなことをどの主人も言っていたことを突き止める。また、殺し方が非常に腕の立つ者が一刀のもとに斬り殺していることもわかる。
さらに、殺される前に「相手方」と被害者が会合をしていた場所がわかり、そこの女将に話を聞くこともできた。話を持ち込んでくる人物の風貌が知れる。
こうした調べを進める中で、主人公の心模様、侍なのに家を出て長屋で貧乏暮らしをしている理由が描かれる。親しい親分とのいきさつや、香具師の仲間とも親しい事情の説明。また、若い者が悪さから足を洗って、岡っ引きになって働くといういい話。そして、主人公と幼なじみの女が、んん、これは書かないでおこう。とにかく、時代小説に必要な配役が見事で、読んでいてどの顔も見えてくるのが素晴らしい。
それで、近年の海外ミステリーには時々あるのだけれど、緻密な物語が進んで大きな事件が解決したあと、まだページが沢山残っているのだ。
事件解決の時に逃げた者が残っている。犯罪の全てを計画したというわけではないが、心の均衡を失って、人を殺し続けることでしか自分を保てなくなったような武士がいる。この男を捕まえないことには、陰惨な殺人が続く。事件解決までにこの男に斬り殺された人たちのためにも、こいつだけは捕まえなければいけない。そうして最後のページが盛り上がっていく。
『蒼火』というタイトルの意味がこの小説では深い意味を持っている。なにしろ、うまい作家。いい小説。
季節の描き方、江戸の街の描き方。江戸を離れるときの街道の風景、武家・商家、船宿・長屋の描写、紙芝居のようにしか描けない若い作家が多い中、見事である。もう、黙って江戸に連れて行ってもらえばいいのであって、こんな楽なことはない。
面白い時代小説、というのは、この本のような作品をいうのだ! と力説しておく。
前に紹介した『夏の椿』の話より、三年前の設定になっている。この『蒼火』はそっちを読んでいないとわからないというような仕掛けはない。
親本があって、今年の11月に文庫化しての新刊。通勤読者には文庫サイズがうれしい。面白いぞぉ。