こんな恋愛をしたいと思うかどうか。おそらく首肯できないだろう。
でも、困ったことに涙はいくらでも流れてしまう。
男は結婚を前提とした恋人から、明るく心細げな新しい恋人へと傾いていく。あまりに繊細で純粋な蕾に惹かれてしまうのだ。それが自らを苦しめるものだとわかっていても、抗うことができない。思考の限界を超えて、感情は怒涛のように押し寄せる。やがて、制御不能に陥っていく。
あなたは恋愛で味わう底知れぬ怯懦(きょうだ)に打ち克てるだろうか。水滴のようにしとしとこぼれていく静謐な時間に耐えられるだろうか。「愛には喪失の日が待ち受けている」のである。あまりにも哀しく切ないが、相克するものを超える力があるのもまた愛であろう。大崎善生がこの恋愛小説で示した苦悩の新境地を垣間見ることができる。
ひとことで言えば、この物語は「摘蕾(てきらい)」の是非を問いかけている。主人公は、祖母がふくらみかけた薔薇の蕾を残らず摘み取るところを子供の頃に見て、衝撃を受ける。殲滅というほどに無惨に摘み取ったのである。その狂気としか思えない姿に慄然とし、若き主人公は老いた人間の耄碌ではないかと思う。それが実は薔薇の育成方法のひとつであることに後に気付く。これこそが翌年に美しい色で大きく咲かすための摘蕾である。
祖母が死んだ年に薔薇は天から降りた「白い妖精」のように一面咲き誇る。心血を注いだ薔薇の美しさに祖母を思い出し、多くの親類が涙する。「咲くことを許されなかった蕾の犠牲」の上にいまの美しさがある。
ふたつ大きく咲かせることのできない愛を暗示するかのように、そのエピソードが小説の原風景であり、旋律となっている。原題が「摘蕾の果て」というのも頷ける。
前の恋人との目に見えない軋轢で「病気とサランラップ一枚」ほどの精神状態になってしまった新しい恋人。懊悩の末に、彼が選んだのは彼女のためにあふれるばかりのやさしさで包みこむことだった。愛する行為は美しくとも、愛する日常は悲惨である。ふたりの恋人の間で起きる精神的な駆け引き。それが度を超せば、どちらかは必然的に大きなダメージを受ける。愛情は精神安定剤に似て、奪われた側は絶望的に煩悶し、精神的に反撃していく。真綿で首を一日ずつ締め上げていくような苦しさが訪れ、新しい恋人は精神状態のアップダウンを繰り返していく。
男はひょんなはずみから「レタスでも食べていれば」と苛立ちから突き放す。その日から新しい恋人は来る日も来る日もレタスだけを食べて暮らす。家中にレタスが散らばり、女は「レタス自殺」を図ろうとした。食べかけのレタスが乱雑にころがる部屋で女は男の手を握り、ポタポタと生暖かい涙を流し続ける。男は精神が病んでいく女のために、部屋を掃除し、食事をつくり、最後の砦だった女の下着まで洗濯する。愛は修羅場と化す。やさしさを突きつめると、こうなる。ふたりの女性が軌を一にしたように精神が緩やかに壊れていく。そして、ふたりは突然彼の前からそれぞれのある方法で消えていく。
劇的な展開に心が痛むが、それだけでこの物語は終わらない。摘蕾のあとに訪れる美しく花開いたものとは何だったのか。男が注ぎ込んだ壮絶なやさしさという自己犠牲。決して報われることのないと思わせた男のやさしさが、ついに未来に希望の花を咲かせる。それが涙のあとに訪れる結末である。この最後は胸に熱く迫る。
あなたには別れた恋人のどんな残像が残っているだろうか。
どんな声がいまも聞こえているだろうか。
恋の思い出はなぜいつも涙の向こうにあるのだろうか。
人はここまでも愛に報いることができることを示した著者渾身の傑作である。