「日本語が亡びる」とはどういうことか? それを説明するために著者は、「普遍語」「国語」「現地語」という3つの概念を採用する。「普遍語」とは、叡智を求める人々が出入りする図書館のごとき存在で、かつてヨーロッパの「学問の言葉」の中枢であったラテン語や、東アジア圏における漢文などがそれにあたる。「国語」とは、もともと「現地語」でしかなかった言葉が、翻訳という行為を通じ、「普遍語」と同じレベルで機能するようになった言葉。で、すぐさまその「現地語」を定義しなければならないが、これは「普遍語」と対になりつつ対立する概念で、「普遍語」が存在する社会で、人々が巷で使う言葉のことである。この3つの縦糸とからみあって、横糸として織物を編み上げていくのが「翻訳」「二重言語者」「書き言葉」「出版語」などの諸概念。近代の国民国家成立後、ある国の国民が世界の叡智にアクセスするためには「普遍語」の富を参照し、理解できなければいけないが、そのためには「普遍語」を「国語」に「翻訳」する「二重言語者」が必要である。そもそもこうした議論が成立する前提には、グーテンベルクの発明によって書物つまり「出版語」が発生し、世界の叡智とは、発話される傍から消えていく話し言葉ではなく「書き言葉」によってこそ蓄積されていくという理解がある。
やれやれ。自分の能力をはるかに超えて解説めいたことをしているようで恐縮至極だが、ここまでは最低書いておかないと何が書いてある本だかサッパリ伝わらないのでお許しいただきたい。
それでだ。現代においては英語だけが突出した「普遍語」として流通し、インターネットの普及がさらに拍車をかけたと著者は見る。「んなこたぁ、わかってるよ」と多くの人が言うだろう。だからこの本の副題になっている「英語の世紀の中で」という見取り図に新味はない。あるのは「日本語が亡びる」ほうだ。
「だが、それでも、これから四半世紀後、漱石のような人物が日本語で書こうとするであろうか――ことに、日本語で文学などを書こうとするであろうか。優れた文学が近代日本で生まれるのを可能にした歴史的条件――それが、今、目に見えて崩れつつある。学問にたずさわる二重言語者が、<普遍語>で書き、<読まれるべき言葉>の連鎖に入る可能性が出てきてしまったからである」
ほとんど喧嘩を売っているような飛躍で、こういう無茶がおもしろい。「漱石のような人物」とはむろん最大級の誉め言葉だが、漱石に関してはこんなくだりもある。
「実際、西洋語に訳された漱石はたとえ優れた訳であっても漱石ではない。日本語を読める外国人のあいだでの漱石の評価は高い。よく日本語を読める人のあいだでほど高い。だが、日本語を読めない外国人のあいだで漱石はまったく評価されていない」
上記の引用部分と本書全体の根幹を筆者なりに理解するとこうなる。人類の叡智がギッシリつまった「普遍語」との緊張関係、そこからの「翻訳」によって「国語」は育つ。特に「普遍語」を読むことができるが、自分が書く時は「国語」=日本語で書くような人材が育つことが「国語」の成長を大きくする。そうして成熟した「国語」はやがて「普遍語」を凌駕すらするだろう。漱石のような人がいい例である。漱石の日本語、いや文学は「普遍語」との格闘なくしてありえなかったが、いまや大いなる高みに立った漱石の文学は、今日の最大級の「普遍語」である英語に翻訳した場合、その輝きは伝わらない。文学とは本来、その「伝わらない輝き」のことなのである。ところが今日、日本文学の書き手たち、ことに優れた書き手であればあるほど、より直接的な「世界性」と多数の読者を求めて英語でしか書かなくなる可能性が出てきた。そんなことになったら「伝わらない輝き」は、日本文学は、いったいどうなってしまうのだろう?