おでんは結局、大根と豆腐にとどめを刺す、と思う。だしのうまさを味わう料理なのだから、淡泊な個性の素材が合うということもあるのだが、はしで少しずつ形を崩して食べるのが、ちびちび酒を飲む(この場合、お燗です)ペースに合う。ちくわやはんぺんは、かじりつくのが基本だから、「ちびちび」に合わない。酒を飲む合間に食べかけを皿に戻すさまが、ひどくみっともない。
東京都心にある老舗居酒屋自慢のおでんには、焼き豆腐が入っている。関東ではそれが一般的なのかどうかは知らないが、西のほうではおでんの豆腐は普通の木綿豆腐だ。それに青ねぎをたっぷりのせる。これが東ではあまり見られないのが残念だ。
思えば、焼き豆腐というのは微妙な位置にある。それ単独で食べることがない。すき焼き、鍋ものではいい仕事をするが、同じ鍋料理に属する「湯豆腐」では、焼き豆腐は使わない。つまり、別に温めると特別に食味が増す、ということでもないようだ。もっとも、彩りに欠ける関東おでんの豆腐には、焼き豆腐の地味な「焼き目」がちょうどいいアクセントになっているのかもしれない。
ともあれ、その老舗居酒屋のカウンターで、おでんの豆腐をはしで相似形の小さい直方体に刻みつつ杯を傾け、皿に残ったつゆをどうして飲むものかと思案していると、しみじみ平和とはこのことだと思う。表の看板にうたう「通の店」はだてではない。ところが、そんな話を職場で吹聴して回っていると、口さがない同僚が「自分から『通の店』と名乗るのは、いかにも粋でない」と言った。
確かにそうかもしれない。が、それを言い出したら、世の中にある広告、宣伝のたぐいはすべて無粋である。惜しくも2008年春に閉店した東京・虎ノ門の名店「鈴傳」は、赤地に白抜きの「うまい酒」という派手な電気看板が店先にかかっていた。それでも本当に「うまい酒」が、格安で飲めたのだから文句はない。自然、酒好きが集まり、「ほかの店でなくこの店で飲みたい」という客で連日満員になるから、ただ酔って騒ぎたい人が割り込む余地がない。だから店には「格」があった。良客は悪客を駆逐する。
「通の店」とうたうのも、事実「通」に愛される仕事をする自信があるからだろう。有言実行、いいのではないか。お客相手に商売をする人が自慢めいた物言いをするのを格好がよくないと思うのは、自慢するものを持っていないのに自慢してみせる輩が、世の中にあふれかえっているせいに違いない。この場合、悪弊が良識をふみつけにしているのだ。
さて、そんなことをつらつら考えたのは、戦前の日本は侵略国家ではなかったという内容の論文を発表して航空幕僚長を更迭された田母神俊雄氏の一件があったからだ。論文の中身については、すでに専門家によって完璧に論破されて玉砕しているので深くは踏み込まないが、あえて簡単に説明すれば、日本軍の「残虐行為」は実態を知らない者の吹聴で、多くのアジア諸国は欧米列強から解放された大東亜戦争(太平洋戦争)を肯定的に評価している。日本が「侵略国家」だったというのは東京裁判によるマインドコントロールで、日本人は歴史に誇りを持たなければならない――と述べ、こう結んでいる。「歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである」
私は国の歴史を誇りに思うことが必要不可欠とは思わないが、田母神氏に従えば「大東亜戦争」が侵略戦争だったとすれば、ほかに誇るべき歴史は何もない、という話になる。世界最古の木造建築である法隆寺とか、二股電球ソケットを発明した松下幸之助さんの偉業はどこへ行ったのか? と思うのだが、ともあれこれこそ「自慢するのに事欠いて……」ということではないのだろうか。