安部公房との対談「アレゴリーを越えて」(中央公論社刊「海」1979年1月号掲載)で、ロブ=グリエは、ボルヘスの「二十世紀の偉大な小説はすべて探偵小説だ」という考えを引き合いに出しつつ、ミステリというジャンル小説のありようを、こんなふうに分析している。
「探偵小説の役割は、そういった無秩序で乱雑な部分に、ある秩序を与えること、しかもすべての要素を利用しながらいっさいの矛盾を解消すること、そして全体が唯一の、決定的な意味、すなわち真実をあらわすようにすることにあります」
それを踏まえたうえで、ロブ=グリエ自身の関心は、「そういう構造を変えること、かき乱すこと」にあると語っている。であるならば、ロブ=グリエの諸作は、アンチ・ミステリとして読むことができる。ロブ=グリエにとっての理想の読者は、ミステリ・マニアなのかもしれない。
ミステリの仕掛けに「信頼できない語り手」というものがある。もっとも有名なケースは、アガサ・クリスティ『アクロイド殺し』(早川書房)だろう。これは事件のあらましを語っていた人物が犯人だったというトリックを用いた作品で、発表当時はアンフェアだと非難されたらしい。
ロブ=グリエ『嫉妬』(新潮社、絶版)の話者も「信頼できない語り手」のバリエーションと見なすことができる。いや、事態は逆で、『嫉妬』の語り手は、十分すぎるほど信頼できる。そこにはいっさい「騙り」が存在しないのだから。むしろ、登場人物たちが置かれている状況を、あまりにも正確に記述しているため、語り手自身の存在が無色透明なものになってしまっている。ただし、注意深い読者なら、それが三人称の客観描写を装った、一人称の主観描写だということに気がつくはずだ。「客観描写」の裏側には、妻に対する嫉妬の感情が渦巻いている。それが明らかになったとき、退屈な文章が延々と続くかと思われた『嫉妬』は、突如、ニューロティック・スリラーの容貌を露にする。
本格ミステリとしての『消しゴム』、ノワールとしての『覗くひと』、スリラーとしての『嫉妬』……。続く『迷路のなかで』は、謎解きの要素は残しつつも、幻想小説めいた書き口で読者を惑わし、題名通り、迷路の只中に投げ込まれる感覚が味わえる。冒頭でいきなり、相反する記述が隣接し、はたしてどちらの場面が「正しい」のか、判断できないのだ。
『迷路のなかで』の主人公は敗残兵。雪に埋もれた街路を彷徨っているが、目的地もはっきりせず、抱えている箱の中身も不明。どうやら、死んだ戦友から預かったものを、誰かに届けようとしているらしい。しかし、主人公の意識は、すでに混濁している。現実と妄想、現在と過去がないまぜになっているのだ。
いま「主人公」という言い方をしたけれども、実のところ、兵士の行動は、語り手である「私」によって綴られるかたちとなっている。この「私」と「兵士」の関係が前景化されないまま、物語(と呼べるとするなら)は一進一退を繰り返す。より正確に言えば、似たような場面が、繰り返し、変奏されるのだ。つねに同じ場所に回帰する迷路。その中に読者である我々も閉じこめられたのかと思いきや、この小説は唐突な終わりを迎える。そのとき我々は「私」が何者だったのかを知ることにもなる。
いわゆる謎解きのカタルシスを欠いている分、ここにミステリ的な興趣を探り当てるのは難しい。しかし『迷路のなかで』の語りを技術論として捉えることができるのは、おそらくミステリに慣れ親しんだ者だけだろう。というのも、作者が用意したゲームに、否応なく対峙させられているのが、ミステリ読者だからだ。センテンスごと、パラグラフごとに仕掛けられた罠。我々はそれを読み解かなければならない(しかし「真相」はあるのだろうか)。
ついでに触れておこう。ロブ=グリエは、その後、『快楽の館』(河出書房新社、絶版)でポルノグラフィの要素を前面に打ち出し(金子国義装幀の富士見ロマン文庫で読みたかった)、『ニューヨーク革命計画』(新潮社、絶版)ではポップ文学に接近している(サンリオSF文庫で読みたかった)。変幻自在と言うべきか。