ありえたかもしれないことを夢想するのは愉しい。たとえば、アラン・ロブ=グリエの『消しゴム』(河出書房新社、絶版)が、ポケミス(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)の1冊として刊行されていたら……。
「えっ? ロブ=グリエって、ヌーヴォー・ロマンの作家でしょ? ミステリとどういう関係があるわけ?」
そんなふうに思う人もいるはずだ。それはそれで、もっともな疑問だが、いったん「ヌーヴォー・ロマンの法皇」というイメージを脇に置いてみよう。その代わり、ちょっと風変わりなジャンル小説として捉えてみる。すると、どうなるか。意外なことに、数十年前の前衛が、いまとなっては、ごく普通のものとして読めるのだ。エレクトリック・マイルスをダンス・ミュージックとして受け止める世代が、とっくの昔に登場しているのだから、ロブ=グリエをエンタテインメントとして捉えても、別段、バチは当たらないだろう。
ミステリとしてロブ=グリエを読むというのは、実のところ、目新しい行為ではない。ミステリファンにはおなじみ、ジュリアン・シモンズの『ブラッディ・マーダー』(新潮社)は、1920年代の英米で花開いた「探偵小説」が、徐々に「犯罪小説」へと発展していく過程を追った大部の評論だが、ここでシモンズ先生、ロブ=グリエの作品にも触れている。
それによると、ロブ=グリエのデビュー作『消しゴム』は、「英国推理作家協会の同年度最優秀作品賞の候補になったものの不幸にして最後の選に洩れ」たらしい。『消しゴム』の英訳は1964年。その年、選ばれた作品は何だったかというと……興味のある方はネットで検索してください。CWA賞にノミネートされただけあって、『消しゴム』は、とりあえず、オーソドックスなミステリとして語ることができる。特色は、被害者、犯人、刑事それぞれが、秘密組織に属していること、それから、刑事と犯人が、双子のようによく似ているところ。それゆえ、状況は錯綜していくのだが……。
とはいえ、デビュー作ということもあるのだろう、ロブ=グリエの作品にしては、おとなしい仕上がりだ。なにしろ、ロブ=グリエの小説は、後年、どんどんデタラメに、いやいや、華麗にして複雑な様相を見せていくのだから。残念ながら、現在、『消しゴム』は入手難。新訳ブームのどさくさにまぎれて、どこか再刊してくれないものか。訳者は、フレンチ・ミステリならこの人、平岡敦氏あたりで。
『消しゴム』は、本格ミステリのフォーマットを採用していたが、続く『覗くひと』(講談社文芸文庫)は、ほとんどノワール。筋立ては単純。殺人を犯した男マチアスが、故郷の離れ小島に戻り、腕時計を売り歩くという話だ。殺人者であるにもかかわらず、一個でも多くの時計を売らなければならないという強迫観念に駆られ、論理的にはありうるかもしれないが、現実的には不可能な行動をとる。それは、罪の意識から逃れるための心理的な防衛なのかもしれない。しかし『覗くひと』の語り手がマチアスの内面に立ち入ることはない。
この荒涼とした世界には、どこか見覚えがある。ノワールと呼んだのは、そういう意味だ。もしかすると、ロブ=グリエは、『郵便配達はいつもベルを二度鳴らす』(早川書房)のジェームズ・M・ケインや、『おれの中の殺し屋』(扶桑社)のジム・トンプスンを読んでいたのではないか。そんなふうに、無責任な推測をしたくなるほど、犯罪小説に接近している。というのも、フランスには、犯罪小説の叢書〈セリ・ノワール〉があるからだ。
余談だが、『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』(共に河出書房新社、フェリックス・ガタリとの共著)など、ポスト構造主義に連なる著作をいくつも発表している哲学者、ジル・ドゥルーズは、初期のエッセイ「セリー・ノワールの哲学」(『無人島 1953-1968』[河出書房新社]収録)で、〈セリ・ノワール〉の魅力について熱っぽく語っている。お気に入りは、『ミス・ブランディッシの蘭』(東京創元社)のハドリー・チェイスや、「墓堀りジョーンズと棺桶エド」シリーズで知られるチェスター・ハイムズだったらしい。一方で、ジェイムズ・ガンという謎の作家も称賛しているのだけれども、これはSF作家のジェイムズ・E・ガンと何か関係があるのだろうか。
話を戻そう。初期ロブ=グリエの十八番である「幾何学的な描写」は、感情を排し、徹底的な客観描写のみで成り立っているという点で、ハードボイルドな味わいを感じさせる。ただし、ダシール・ハメットやレイモンド・チャンドラーのような簡潔さには欠ける。どちらかというと、粘着気味であり、『覗くひと』においては、それが主人公のサイコっぷりとつりあっているあたりが読みどころか。いわば「精神病理学の一ケース」(望月芳郎「訳者解説」)なのだ。
そういえば、数年前、ウィル・スミス主演で『覗くひと』が映画化されるというニュースが流れたが、あれはいったいどうなったのか。しかし、ロブ=グリエとウィル・スミスとは……。まさに事実は小説よりも奇なり。このありえない組み合わせが素晴らしい。