蜂飼耳さんという、ポエティックな名前を持つ書き手の書評とエッセイを集めた新刊。詩人、エッセイスト、作家と肩書きをつければそうなるけれど、蜂飼さんの場合、入れるコップが違うだけで、もとの水は同じ透明度と成分を保っている。しかし、実質はやはり詩人だと思う。
どういうところかと言うと、予断で文章を書かないというのがその一つ。「群盲象を評す」というと悪い意味になるが、蜂飼さんは、目でちゃんと観察しながら、同時に目をつぶって撫でて、それを言葉にする。例えば、富山地方鉄道の無人駅「有峰口」で降りた時の体験を綴る「文字の居留守」。駅員はその時は居なかったが、居るときもあるらしい。待合室に鏡がある。覗いてみると「居ない駅員さんが、鏡の静けさのなかへ、ふらっと現れそうだった」と言う。その時、「はじめて鏡を見た気がした」と彼女は書く。その時、読者も初めて、鏡という物体と向かい合う。
また、「人が、居たけれど、いまは居ない。そういう場所に引かれる。残された空気は溶け合い、混ざり合って、後もどりはできずに熟していく。言葉はなにも捕らえることができない。そうかもしれない、というすがたのしっぽを、踏みつけるだけだ」とも言う。言葉を信じなければ、詩は、文章は書けない。同時に、言葉にしてしまう怖れをも、つねに表現者は内包している。この両者の浸透圧で、初めて手垢のつかない言葉たちが生み出される。
「紅水晶の遠近法」は、「気になっていることがある。どうして人間は、おもてを歩いていても、他の生きものに食べられないだろう」と書き出される。思いもよらない不意打ちに、撫でてみなくたって象は象だと信じ切っている我々は揺れる。「雨乞い」という一文では、雨にまつわる記憶や感覚を濃密に描きながら、飛べないで走るミューという鳥の話にスライドしていく。この鳥は、雨雲を追いかけて移動しつづけているらしい。ここまではまあ、普通。しかし、蜂飼さんは、この不思議な鳥を「なんだか人間みたいだな、と思った」と書く。「いろいろ選べるようでいて、選べない。選んだつもりでも、実際にはなにも選んでいない。雨雲ほどにも目には見えないなにものかに導かれて、どんどん流れていくのだ」という理由で。
蜂飼さんのような、こういう考え方は危険かもしれない。明日は今日より明るい日にと願い、政治や経済という制度や法律や慣習に守られつつ生きていく分には、必要のない考え方だからだ。しかし現実は、じつに危うい地平に我々は立っていて、明日のことなんて、何も約束されていないのだ。先人の手垢を拭いて、自分で新しい指紋をつけてみないと、それが本当に目の前にあるかもわからない。
蜂飼さんの散文を読むと、息を詰めつつ、言葉の細道をたどりながら、どこか自分の気持や考えが、広く解放されていくのを感じる。雨上がりの野を歩くように、ページをめくるたびに草いきれや風が身近に親しく感じられる。
書評もいい。「泉鏡花の五目飯」では、鏡花の『高野聖』を紹介するのに、作中の「私」が汽車の中で広げる弁当の「五目飯」に着目する。山道で魑魅魍魎に襲われる怪奇譚を、蜂飼さんは、「五目飯」が持つ「絶妙な位置」を中心軸にコマを回すことで読み解いていく。これは誰も触れたことがない鏡花の核心だと思う。
フリオ・コルタサルの短篇集『悪魔の涎・追い求める男 他八篇』も、中の一篇「正午の島」の魅力をていねいに解きほどいて読ませる。このラテン=アメリカの作家の特色を「本の内外を往き来する感覚が植えつけられている」と要約しつつ、こう書く。
「本を読んでいるあいだは、ほかのことはできない。限りある生の時間の一部を、その本に捧げるのだ。コルタサルの言葉は、読書の哀しみを表している」
我々も、蜂飼耳を読んでいるあいだは、「ほかのことはできない」。注意深く入っていかないと、彼女の言葉は逃げていく。手にしっかり握って離さない者だけが、彼女が言葉に託して打ち明けた「秘密」を知ることができるのだ。