紅葉の美しい軽井沢から東京への帰り道、上信越自動車道の横川SAに寄ったら「マルシェYOKOKAWA」というミニ市場があり、群馬産の新鮮なブランド野菜が並んでいた。片品村の尾瀬大根、下仁田ネギ、嬬恋キャベツ、沼田トマト…。これらを眺めながら私が真っ先に思い出したのが『ばかもの』である。
10代のヒデと27歳の額子(がくこ)のSEXシーンに終始する最初の章は、くすっと笑えるのに甘くはなく、ソリッドで緩急ある描写の中にずばっと本当のことが描かれているのだが、群馬の峠を思わせる記述と、高崎駅東口で購入されたと思われるギョーザについての記述が意表をつく。「ヒデはそれほど我慢強い男ではない。すぐに峠を攻めるやんちゃなクルマのように火花を立てて追いたてる」。「王将のギョーザはたっぷりの水分とたっぷりの油分で成り立っている。それが冷えて水と油が分離してしまうとまずくなるのだ、多分」。
そう、この小説には、群馬の香りがさりげなく全方位的に漂っている。額子に遊んでもらっていた10代のヒデはやがて30代になり、少しずつ文章のリズムも変わる。ギョーザとSEXしか見ていなかった彼が、次第に周囲の風景に気づき、群馬を発見していくのだ。それは一体どういうことなのか?
ある時期、アル中からなかなか抜け出せないどん底のヒデは、国道バイパス沿いのラーメン屋へバイトに向かう途中、暗い気分で考える。「失い続ける。なにもかも失い続ける。得たものなんて何もない。だけど他人が羨ましいということもないのだ。有名になるとか美人の嫁さんをもらうとか子供が天才とか、そういう人生を過ごしたいとも思わないのだ。淡々と生きていけたら俺はそれでいいんだが。ただ、友達が減ってくってことはたまらなく切ない」。
月日の経過というのは残酷だ。友達が変な方向へ走っちゃったり、自分も何かと大変だったり。年齢を重ねるとは、つまらない人間になったり傷を負ったりすることなのである。ああ、なんて絶望的な小説! でもこれは、日々進化してポジティブに生きるべきとかいう、ステレオタイプな生き方指南のアンチテーゼなんじゃないか? この小説は、そういう嘘っぽさの副作用として現れるさまざまな現象や生きにくさを掬い取り、額子の母やヒデの姉など、上の世代が見せるごく自然なふるまいに希望を灯す。彼女たちとの会話の応酬が、ヒデをラクにするのだ。「ばかもの」という言葉も、額子との会話の中で照れ隠しに使われる誠実なアイテムのひとつである。
人は永遠に不完全で、しかも齢をとる。10代の時にきらめいていたことが色あせたりするし、次々と困難に見舞われるかもしれない。だけど、時間をかけることで見えなかったものが見えてくるし、過去も塗り替えられていく。過去の記憶とは、あとから構築されるものなのだろう。今の瞬間、ギョーザのことしか考えていない少年も、レールに乗らずに自力で峠道を切りひらいていくような正しい不良でさえあれば、自分を取り巻く風景は必ず色づいてくるはずなのだ。
ヒデは、女にとって最低な男であり、ユートピアでもある。男にはいろんな時代があるということだ。もしも私がヒデの友達なら ― と私は勝手に夢想してみる。額子でもなく、ネユキでもなく、翔子でもなく、おばやんでもなく、彼のどんな風景になれるだろう?