人間の欲望で避け難いものはお金。好況のときも不況のときもお金である。そして、それを巡る金融あるいは経済事件は今では常態化している。一時的とはいえマスコミがホリエモン(堀江貴文)を改革者に見立て、村上世彰を財界の一部が盛り立てた。あれは一体何だったのか。
私の専門分野では貨幣と信用は固有の研究対象であるが、それはともかく、本書は、大学生社長のヤミ金融事件として、戦後の経済記事を賑わし、「人生そのものを演技とわりきり、それに徹した人物」、27歳で青酸カリを飲んで自殺した東京大学法学部学生山崎晃嗣の心理的深層を探ろうとしたノンフィクションである。
この事件の主人公山崎は、三島由紀夫の『青の時代』や高木彬光の『白昼の死角』などの小説のモデルになった。しかし著者は、この事件を東大生、法学部の秀才、ヤミ金融、女性遍歴、暴力、契約破棄、自殺といった言葉に押し込めるのではなく、近代日本史におけるひとりのキーマンとして山崎を描いている。
山崎は東大入学一ヶ月後に学徒出陣し、二年後に陸軍主計少尉として敗戦を迎えた。それにもかかわらず戦争の影が重ならない、あるいは意図的に隠されているのは不自然である、という。
それは何故か。山崎の実像とは。ステレオタイプではなく、著者の「なぜ」という発想は新鮮である。
著者は、戦争×合理主義という視点から、山崎の自殺に至るまでのプロセスを丁寧にトレースしている。狂気が正常であった当時、普通であれば、政治運動や文化活動を通して社会に立ち向かったであろうが、山崎は、東大復学後、お決まりのコースを辿らず、高利貸し会社「光クラブ」の看板を掲げ、金融経済という世界に身を置きながら、観客である庶民を操った。
「狼は生きろ,豚は死ね!」。『白昼の死角』が映画化された当時のコピーである。山崎の人間社会に対する見方を過激に表現している。また金融経済に躍らされる庶民の姿をシニカルに表してもいる。アリストテレスが揶揄した、金儲け、成金に対する羨望と不満と嫌悪、善悪や正義といった価値観では律しきれない、契約(人は合意によってのみ拘束される)という経済社会が求める合理主義にしたがえば、金融業山崎の言動から、同時に資本主義経済のなかで生起する事柄を垣間見ることができる。アメリカ型の市場原理主義、狂い始めた大衆民主主義社会の到来を予見するようでもある。
光クラブ事件の主役山崎晃嗣をライブドア事件の堀江貴文に投影することもできるかもしれない。また、エリート崩壊の図という俗物的な見方もあろう。
戦後インフレ期の事件とバブル崩壊後の事件・・・時代文脈はあきらかに異なり、単純に一般化することはできないが、最終的には「最高の悪である国家」に切り捨てられた。軍隊時代の体験と合理主義が結びつき、人間を将棋盤上の駒とみなしながら、醒めた眼で社会を見詰め、木更津の華麗な一族として庶民の俗物性に怒りをぶつけ、自らに対しても怨嗟した、野坂昭如ら焼跡闇市派のいうところの「青春(あおはる)」とは異なる軌跡を記した一冊である。