「しょういん」と発音されれば私たちは吉田松陰の「松蔭」というマスイメージを持っているが、ここにもう1人の「しょういん」がいた。『限界集落』では、まず佐渡の波(現地ではノタと呼ばれている)、つまり海から始まって、そのあとの多くは山間部を、私たちはゆっくりと著者に同行して、「そういえば」と、ふと思いあたる。「照陰」とはまた、山路来てなにやらゆかし名前である。少なくともそんじょそこらの市井の人の名ではない。そう。梶井照陰氏は写真家であるとともに、佐渡ヶ島に住まう真言宗の僧侶でもあるのだ。
先に、著者の態度を「記録者」と書いたけれども、その「記録」の隣に写真が寄り添う。『限界集落』には、表紙、カバー含めて64葉の写真が採用されているが、この写真がどうにもやさしいのである。写真がやさしいとはどういうことか、そんなことはわからずに書いてしまうが、やさしい、という言葉が先に口をついて出るというか、これがやさしさじゃなかったら、やさしさってなに? ということになってしまうような、そういうやさしさが「照」らした写真たちなのだ。
職業柄、どうしてもそういうところを見てしまうのだけれど、この本の帯には「写真家・梶井照陰のフォト+ルポルタージュ」と書かれており、「またそういう細かいところを」とツッこまれそうなのだが、「フォト・ルポルタージュ」ではなく「フォト+ルポルタージュ」とあるのはさすがに編集者、いい仕事をしている、と感じる。と、いうのも、この本においては文と写真が融合している(フォト・ルポルタージュ)のではなく、拮抗している(フォト+ルポルタージュ)からである。むろんそれは強い緊張関係でガチンコしている、というようなものではないけれども、溶け合うというより隣にいるという感じが強い。
文章家の態度が「記録者」であれば、写真家はなんだろう? それは「記憶者」ではないか。記録よりもプライベートなもの。表現に近いもの。
幸い、Book Japanは書影を見ることができるので、最初のページでカバーの写真をご覧いただきたい。これは『限界集落』というこの本の中では極めて例外的な1枚である。残る63点の写真は、著者が話を聞いた人々、集落の姿(多くは自然の風景)、動物や植物で構成されている。この1枚だけが、高齢者が常時服用している(と思われる)複数の薬をテーブルクロスの上に広げたものになっていて、左上にはさりげなく、しかし明らかに読み取れるように「佐渡市立両津病院薬剤部」の薬袋の文字が読み取れる。おそらくこれは、著書の祖母の私物であろう。
寄り過ぎず、引き過ぎず。人物を中景でととらえたショットはどれも素晴らしくいい。105ページなんか、見るたびに泣きそうになる。57ページ、カスミソウ(かな?)の傍らで戯れる2羽のモンシロチョウの、なんという甘さ。131ページ、井上實さんのポートレートは一見、何の変哲もないが、まだゴム手袋も外していないその左手にいささか収まりが悪い感じで握られている白い四角の紙、それはもしかすると、著者から手渡された名刺ではないのか。まだ心を許してはいない、しかし憮然ともしていない、なによりも一つの仕事に長い時間従事してきた人の顔がそこにはあって……。
ああ、ダメだ。なんだか胸がいっぱい。思えばお坊さんというのは、葬式仏教なんて悪口を叩かれてきたけれど、その昔は、衆生を救う実践家であったのだ。そしてここに、いまという時代の一つの実践のカタチがある、と思う。
『限界集落』は、何らかの意味で、あなたを照らす1冊になるやもしれません。
それにしても…… 親不幸が身にしみます……。