「限界集落」という言葉をお聞きになったことがあるだろうか。一部報道で出始めているものの、不勉強な筆者などはこの本を手に取るまでは聞いたこともなかった。
本の冒頭からそのまま引用すれば、限界集落とは「65歳以上の高齢者が集落人口の50%を超え、独居老人世帯が増加し、このため集落の共同活動の機能が低下し、社会的共同生活の維持が困難な状態にある集落をいう」とある。若者人口がどんどん都市部に流出し、残るは高齢者ばかりの過疎の村をイメージすれば、いくらか実像に近づくかもしれない。そして「2006年4月の時点では65歳以上の高齢者が半数を占める集落は7878あり、今後423集落が10年以内に消滅する恐れがある」らしい。後継者はなく、おいそれと病院へも行けない、買い物も意のままにできない、そうした状況に置かれた全国の限界集落のうち、12の集落を訪ねてまとめ上げたのが『限界集落 ―Marginal Village』である。
著者のスタイルはいたって簡潔だ。むろん、あらかじめ下調べをして出かけるに決まっているのだが、例えばどこそこの地域にはいくつの集落があり、そのうちいくつが限界集落かという数字のみを示して、サッと会話に入っていったりする。自らが暮らす新潟県の海府(かいふ)から、鷲崎という集落を取材対象に選び、祖母まで登場しているが、そこから滔滔と「私語り」が展開されることもなければ、文が感傷に濡れることもない。集落の歴史を語り、地理を語り、産業を語り、時にそれらの集落を「限界」へと押しやっている時代の変化や日本社会のシステムのゆがみに言及することがあっても、そこに告発の調子はない。
よそ者、であるしかないような場所へ静かに入って行き、そこで出会った人々にそっと話しかける。それは「腰のかがんだおばあさんがゼンマイを摘んでいるのが見えた」時だったり、「路肩で草かりをしているおばあさん」だったり、「焚き火の前で暖をとる人影」だったりする。時には「こんなところでなにをしてるハ」と不審の目で見られてしまうこともあるようだ。「不審に思うのが自然な感情というものだろう」と著者は認め、その集落について調べていることを話す。幸いにしてそんな時は、「んだな、そしたら渋谷はるのさんに聞いてみるといいだハ」と親切に教えてくれることになる。
著者の態度は、記録者のそれである。民俗学のフィールドワークに近いといえるかもしれない。柳田国男や宮本常一を持ち出すまでもなく、村や集落の古老に話を聞きにいくという作法の伝統は、まだこの国には生きている。実際、そのほとんどが70歳以上の高齢者の言葉たちでこの本は出来上がっているわけだけれども、新潟、山梨、熊本、長野、北海道、山形、徳島、東京、和歌山、石川、京都と巡っていく9ヶ月間におよぶ旅の中で、多くの土地で著者は民謡や山行歌、開拓踊の歌、小学校校歌などに目をとめ、その詞を紹介している。
また徳島県の陰という集落では、特有の姥捨伝説を採取しているが、それはおよそ以下のようなものだ。
「むかし一宇には与吉ちゅう親孝行の若者が住んどってな。お杉っちゅうばあさんと2人で暮らしてたんじゃ。だけんどな、この集落にはむかしっから60歳をすぎた年寄りは山に捨てなければならんっちゅう掟があってな。ある日、代官様に隠していたばあさんが見つかってしもうたんじゃ。与吉は代官に許しを乞うたがな、それならと代官は逆に難問を突きつけたんじゃ」
その「難問」とは「赤い羽根の鳥を期限までに捕まえてこい」というもので、必死の努力もむなしく、それは果たされない。ところが、もはやこれまでかというところで逆転がおこる。いよいよ裁きが下される瞬間、木の枝に止まっていた白い鳥に夕日が当たって真っ赤に染まった。その様子に感動した代官は与吉を許し、以来、年寄りを山に捨てることはなくなったというのがこの伝説の「オチ」である。最後に著者は書く。
「その伝説が作られてからどれほどときが経つのかわからないが、今という時代は姥捨の時代に戻ってしまっているのでは、という気がしてならないのは、わたしだけだろうか」。
いささか長く、この伝説をめぐるくだりについて紹介したのは実は理由がある。単なる偶然といえばそれまでなのだけれども(そして意地の悪い人はこれを「こじつけ」というのだネ)、伝説が採取された集落はその名を「陰」と言う。著者の名は「梶井照陰」であり、「陰」の一文字を共有するとともに、白い鳥に夕日が射すという出来事は「照」ではないか。しかも、えーここで初めて書きますが(遅いね)、梶井照陰氏は写真家なのだ。写真とはまさしく、「陰」を「照」する行為でなくてなんだろう。