『幻想文学』(アトリエOCTA)が終刊し、『夜想』(ペヨトル工房)が休刊&リニューアルした現在、「怪奇と幻想と闇」というテーマに対し、批評的あるいは学術的なアプローチを試みる志高い叢書シリーズ(青弓社刊行)の第4弾は、「映画の恐怖」についての特集号です。
「ホラー映画」の関連書ならば、すでに巷に氾濫している感もありますが、この1冊は、ホラーないしは恐怖・怪奇映画といった「ジャンル」についてではなく、あくまでも「映画の恐怖」、すなわち、ジャンルを超えた《映画》の中に現れる《無気味なもの》に焦点をおいて編纂されています。したがって、従来、「ホラー」という文脈では論じられる機会が少なかった映画作家あるいは作品についての論考が多数収録されている点が、本書のユニークな魅力となっています。
たとえば、小津安二郎『晩春』(1949)、ジョン・カサヴェテス『オープニング・ナイト』(1978)など、一見「ホラー」とは異質な名作を、「恐怖」という文脈から新たに捉え直す試み。あるいは日中戦争の渦中の上海において、呪われた「怪人」たちのドラマを撮りつづけた馬徐維邦(マーシュイ・ウェイバン)や、旧ソ連の恐怖映画のカルト作『妖婆・死棺の呪い』(『魔女伝説 ヴィー』)など、困難な制作条件のもと、独創的な「怪奇と幻想」の表現を達成したローカル・シネマ論。「ストップモーション・アニメーション」技術の嚆矢として名高いヴワディスワフ・スタレーヴィチが帝政末期ロシアで制作した昆虫アニメーション論……。ページをめくってゆくごとに、さて、次はどんな未知なる怪奇と幻想の体験が待ちうけているのだろうか、と、わくわくする期待感が高まってゆきます。
その一方で、高橋洋、黒沢清、あるいはアルフレッド・ヒッチコックといった、「ホラー映画」の文脈においても名高い作家たちについての論考も充実しています。
たとえば、碓井みちこ「ヒッチコック映画――「日常」の恐怖」は、『引き裂かれたカーテン』(1966)の、台所用具を使った「どこまでも終わりがない」かのような殺人場面と、『フレンジー』(1972)の、主人公の恋人がそれと知らずに殺人犯の部屋に入った瞬間、閉ざされた部屋の扉から、アパートの全景を見渡す街路までキャメラが後退移動してゆく名高いワンショットの分析を通じて、ヒッチコック作品を特徴づける「日常がそのまま非日常の世界になる恐怖」が、いかなるワンシーン/ワンカットの画面と音響の演出によって具体的に実現されているかを明らかにしてゆきます。
あるいは、川崎公平「人間ならざる人間――「ジャパニーズ・ホラー」と恐怖マンガの可能性」は、1990年前後から独自のスタイルを確立し、今日では世界を席巻するに至ったいわゆる「ジャパニーズ・ホラー」(Jホラー)映画がテーマです。そこではキャメラの前の被写体としての「人間」を、照明や特殊メイクやCGIなどの特殊加工を加えることなくそのまま映像として見せつつ、いかに「非人間」化させてゆくかという技法論を、物語世界内の「人物」であると同時に、紙の上に引かれた「描線」でしかない「マンガのキャラクター」の存在論とリンクさせつつ、両者の共有しうる「メディアの物質性の肯定」の可能性を論じてゆきます。
いずれにしても、取り上げられている作品を改めて見直し、読み返して、過去には気づいていなかったかもしれない戦慄の可能性を再体験してみたい、という欲望をかきたててくれる刺激的な論考です。また、本書冒頭に収録されている、「Jホラー」のジャンルとしての確立に多大な貢献を果たした脚本家・プロデューサーの小中千昭氏のインタビューには、映画のみならず、小説、アニメーション、テレビの特撮ヒーローシリーズ、ゲームなどの複数メディアを横断する活躍ぶりとともに、その博覧強記ぶりにも驚嘆させられます。