こんな言葉はないと思うけれど、私は時々「フィクション疲れ」をしてしまうことがある。
創作された小説がよくできていればいるほど、そのみごとさに「やられた!」という感じを持つ。またその物語の構成の素晴らしさにも「まいったな」と思う。ぎりぎりまでハラハラさせておいて、最後にほっとさせられるなど、作家の思い通りに翻弄された感じが強いと、十分楽しんでいながらぐったり疲れてしまうのである。
連続してそうそう名作を読めることはないにしても、何冊かできのいい小説を読み続けると「フィクション疲れ」してしまい、ノンフィクションに逃げ込みたくなってしまうのだ。
「へぇ、そんなことがあるんだ」と話について行けばいいノンフィクションは、内容が重くても、辛くても、やられたという感覚はない。
そういう感じで、ほっとするために「逃げ込んだ」ノンフィクションだったが、いやぁ、この本は緊張の連続。
「今年これ読まないでどうする?」の一編として、『シャドウ・ダイバー』紹介しておきたい。
アメリカに多くのプロのダイバーたちがいて、中に、古い沈没船を探しては中から貴重品、時に金貨などを引き上げたり、船の中に残されている古い日誌などを持ち帰って金にしている連中がいる。基本的には一攫千金を狙い、金になる物を狙い続けている。といって、それだけで食べていけないので、日常は観光客を船に乗せて潜って沈没船が見られる場所まで案内したり、海中散歩にふさわしいきれいな場所でダイビングさせるガイドなどで暮らしている。
彼らは、自分が見つけた沈没船は飯のタネなので、それを見つけた情報も、沈んでいる場所も他人に教えることはない。飲み屋でも口にしたりしないように、徹底して情報管理している。
なにしろ、日頃組んでいる仲間同士の無線による情報交換を盗聴して、発見した者達が沈没船に手をつける前に獲物を横取りすることもままあるのだ。ということで、互いに「あいつらは海賊まがいだ」と反目しあっている。
そうした中のあるダイバーが、アメリカの沖合にドイツ海軍の潜水艦であるUボートが沈んでいるのを発見してしまう。
どう見てもUボートだ。それは、金にはならないが、ダイバーの心を捉えた。
ここで少し話が飛ぶ。
戦後世代である私は当然戦争について多くのことを知らなかった。
そういうこともあって長い間、第二次世界大戦、または太平洋戦争についての本を読み続けてきた。その中で、戦争では出撃すれば、部隊であれ、戦闘機、潜水艦であれ、何月何日何時に出撃してどこで敵と遭遇し、戦い、どの場所で撃墜した、撃沈したということを全て記録に残してあるものだと知った。その作戦の成否も明記する。
第二次大戦が終わってから、イギリスドイツ双方の生き残った潜水艦や駆逐艦の艦長たちが記録をつき合わせ、「あの時の敵艦の艦長はあなたでしたか」「撃沈させたと思っていたのに、騙されたんですね」「魚雷発射管から乗組員の制服などを発射して、やられたと見せかけたんです」というような言葉を交わしながら戦争当時を振り返ることをやったという話を読んだことがある。
いずれにせよ、国を挙げて他国と戦う戦争は、きちんと記録を残すものだそうだ。考えてみれば、そうだろうと納得するが、アリューシャン列島から赤道を越えてまで戦線が伸びてしまった「日本の最後の戦争」の記録がきちんと残っているものなんだろうか、という思いがないではない。事実、これまで読んだ本の中で、ドイツの戦いの最後の方、また日本軍が戦艦大和をつぎ込んだ沖縄戦で破れたあと、特攻隊が悲しくも次々撃ち落とされるようになったあたりの記録は正確には残っていないと知らされた。それぐらいの惨状だったのだ。