やるに事欠いてというわけではないのだが、今年の春に生まれて初めて「いちご狩り」というものをした。いちご農家の巨大なビニールハウスの中に入っていって、数十メートルの長さに連ねられた幾列もあるプランターの棚からぶら下がった実を、なるべく大きく赤く熟したものを選って、摘んで食べる。これが「30分間食べ放題」で、1人1200円(大人)。
その値段が高いのか安いのか、私には判断する材料がないが、普段は収穫されてから相当時間がたったものを食べることに慣れている分、植物を命脈がつながれている状態(農薬や化学肥料などの問題はここでは措く)で味わうのは、文字通り新鮮な経験であった。実際、いちごを「常温」で食べることがあまりない。熟すに任せたいちごは、先っぽの一番甘いところをかじると汗のにおいがして、いちごにも体温があるのだということが分かる(無論、露地ものとは違うのだろうが)。
が、そうやって驚いたり感心したりするのは初めの10分かそこらで、15分を過ぎたあたりからは、「もう食べたくないが、果たしてもとを取ったのだろうか」という不安感が私をして次のいちごに向かわせる、という状態になる。いちごなんか見るのも嫌になってくる。さっきまで私を感動させていた果実の生命感が、しつこさに変わる。
かといって、満腹になったわけではない。出かける前はいちごを腹いっぱい食べて昼ご飯の代わりにするか、などと考えていたのだが、とんでもない。むしろ飢餓感にさいなまれ、帰り道にたこ焼きを買い食いしてようやく人心地ついた。いちごのビタミンCも台無し、という気がした。
そこで私が深く思いをはせたのが、カロリー換算で「39%」に落ち込んだ日本の食料自給率である。単純に考えれば、外国からの輸入がストップした場合、これまで晩に2膳食べていたご飯が茶碗にせいぜい8分目、おかずのサンマは親子3人で1匹しか食べられなくなるということだ。それだけで相当ひもじい感じがするが、カロリー(熱量)は穀物や肉、魚だけに拠るのではない。口に入れられるすべての食べ物を総動員してなお、現在では必要量の4割弱しかまかなえない、という意味なのだ。
つまり、どういうことになるかというと、
「堀さん一家の今日の食事は、全部いちごです」
なんて話もありえる。好きなだけ食べてもいいという条件下でさえ、いちごでは満腹にならないのである。それが、必要なカロリーに到底届かない分しかいちごを与えられないとなれば、本当に悲惨なことになる。
「飢餓」は案外と私たちの近いところに、息を殺して潜んでいるのだ。事実、ここにきて原油高を背景に、あらゆる食料品が高騰したり品不足に陥って、いかに日本の「食」が外国に頼り切った危うい状態にあるかを、日本人自身に気づかせるきっかけになった。そういう思いで書棚から改めて手に取ったのが、この本である。
名著の一つである。もっとも、もしかしたら「なぜ……」という今どきよくあるタイトルのつけ方から、最近出版された新書か何かと思う人もいるかもしれない。が、そうではない。原書の初版は1976年に発行されている。1970年代にアジア、アフリカ、ラテンアメリカで多くの貧しい人々を苦しませた深刻な食糧不足や飢餓は、一体どういうメカニズムで発生するのかを、豊富なデータをもとに解き明かした同時代リポートの力作である。