人間の起源ということに関しては、いつもひとつの大きな疑問に突き当たる。それはぼくの親父の疑念でもあった。彼は就寝前のベッドで、夜毎エンサイクロペディア・ブリタニカのあの厚く重い一巻を胸の上に立てかけて読むような人間だったから、よく物を知っていたほうだと思う。その彼も、このごく単純な謎には頭を悩ませていたようだ。
キリスト教では、人間は神の作ったアダムとイヴから生まれ、連綿と今に続いていると信じられている。だとしたら、と彼は考える。人類は、末広がりに増えていくはずだ。なるほど、現代社会では世界人口が増え続け、食料や環境や資源の不足が大きな問題になっていることと理論的には合致している。だが、と彼は言うのだ
ここにいる自分は、父と母の二人から生まれた。その父もまた、彼の父と母の二人から生まれた。母のほうも、彼女の両親二人から生まれた。その両親の片割れもまた……と、人間は遡ればのぼるほど、人数は増えていくのではないか、と。
親父のこの疑問にぼくは反論することができず、おそらくは統計学や人間生理学、社会科学などの分野からすぐに論破されるのだろうけれど、非常にプリミティヴに、今よりも先祖のほうが人間が多い、というイメージから抜け出せないまま彼の疑問を我が疑問として現在に至っている。
このことは実は進化論の根源に関わっている。アダムとイヴの二人から人間は始まり、世界は進歩してきた、と聖書は言う。一方、ダーウィンの進化論の根本にある生命進化のスタートは、ある少数の生物から枝分かれしてさまざまな生命の種が生まれたということになっている。原初の地球は少数だったが、やがて年を経るにしたがって増大し広がっていくというこの考え方だけをとれば、聖書も進化論も同じ思想上にある。この時点では、ぼくの内部では科学(たとえそれが偽科学であっても)と宗教(それが偽宗教であっても)の互いに相反するところはない。
ダーウィンの進化論の要諦は、生物は不変ではなく、長い年月を経て少しずつ変化してきた、という考え方である。この場合の「進化」という言葉は、進歩や前進、より良くなる、といった意味ではなく、多様な変化をするもののそれはその生物にとっての都合よい進歩であるばかりではないということである。ぼくたちは最近、この「進化」という言葉を誤用していて、たとえば「進化したケイタイ」や「進化したクルマ」という使い方をしてしまうが、実際には「改良されたケイタイ」「進歩したクルマ」というべきなのだ。「進化」の誤用は、そのまま進化論に対する誤解を生んでいる
だからダーウィンの進化の考え方は、けしてよりよき方向に生物が進歩していくのではなく、その場にもっともふさわしい変化をしていくというものなのである。だが、生物はその発生当初から少しも変化していない、と主張するのが、旧約聖書の創世記を信奉するキリスト教のある宗派の連中だった。生物は神が作りたもうたもので、その誕生の瞬間から完璧な姿をし、完璧に環境に対応しているという考え方を、彼らはしている。
現在アメリカで問題になっているダーウィンの進化論に対する疑問、やがては悪魔の学説であると考えられるようになったのは、後述するが、いうならば時代が悪かったとも言えるかもしれない。彼の進化論の基本は、生物の持つ性質は同種でも個体間に違いがあり、それは親から子に伝えられた特質である、というところにある。ところがその生物は繁殖力が強く、その繁殖力に比べて環境が持つ収容力には限度があり、生まれた子のすべてが生き残ることはできない。そのため有利な形質を持ったものがより多くの子を遺すことができる。この理由によって、有利な変異を持つ子の形質が保存され、その蓄積によって進化が起きる。すなわち、適者生存なのである。そしてこのことは、絶滅種は適者ではないので、絶滅するしかない、という考え方になっていく。
この絶滅種は絶滅するしかない、とも受け取れる学説には、当然反発する意見が多出した。
科学的な面からも、たとえばダーウィンは全ての生物は単細胞生物が進化し枝分かれしたとしているが、その進化の過程で魚類、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類の順で生まれたとするが、ではその各類の中間に位置する生物の化石が存在しないということや、あるいは突然変異――ミューテーションの結果は悪い方――変形(異形)かより劣ったものか、死んだものだけが出るだけで、それはけして、進化にとっていい方向ではない。こういう点からも、ダーウィンの進化論は怪しいと考えられるようになった。