表題は、本書に収録されている「週刊文春」で当時連載していたエッセイの通しタイトルから取られている。この連載中に、著者は台湾上空で航空機事故に遭い、帰らぬ人となった。本書は、その向田邦子の最後のエッセイを含む未刊行作品を集めたエッセイ集だ。テレビドラマをめぐっての放送作家としての本音、それに、食べもののこと、旅のことがまとめられている。
向田邦子を語るキーワードは、「猫」や「おしゃれ」「器」「友だち」などいくつもあるが、彼女が大好きだった「食」と「旅」は外せない二大テーマ。それだけに、言葉の端々から”素の向田邦子”が立ちのぼってくるようで、読んでいてもとても楽しい。
〈何かの間違いで、テレビやラジオの脚本を書く仕事をしているが、本当は板前さんになりたかった。〉と書く著者は、食いしん坊で、料理上手。思いが高じて、実際に「ままや」という小料理屋まで開いてしまう。妹の和子さんと切り盛りしたその店はいまはないが、「ままや」に掛けていた思いは、本書の中の一編「『ままや』繁盛記」で知ることができる。
〈おいしくて安くて小綺麗で、女ひとりでも気兼ねなく入れる和食の店はないだろうか。(略)吟味されたご飯。煮魚と焼魚。季節のお総菜。出来たら、精進揚の煮つけや、ほんのひと口、ライスカレーなんぞが食べられたら、もっといい。〉
向田邦子の服をよく仕立てていたファッション・デザイナーの植田いつ子氏、女優の加藤治子氏、作家の澤地久枝氏ら、仲のいい友人同士でそんな話になったとき、みなが同じ悩みを持っていたことがわかり、著者は自分でやってみるかと思い立つ。
当時、五反田で小さな喫茶店を営んでいた和子さんは他の料理屋で1年弱修業を積み、本人は〈黒幕兼ポン引き兼気の向いた時ゆくパートのホステス〉という立場に。
とはいえ、物件選びから、内装工事、食器の買い付けや店のレタリングやマッチのデザインまでやることはてんこ盛り。しかし、本当の苦労は店を開けてからで、そのてんやわんやは、まさに店をやったことがある人にだけわかる実感だ。
〈どんなにくたびれても、笑っていられ、最悪の場合には、仕入れから板前さんの代理、はては床みがきご不浄の掃除までする体力がなくては、店はやれない。(略)「たわむれに店はすまじ」である〉。
ホームドラマでもごく普通の食事の風景をよく書いた著者は、エッセイの中でも庶民に愛される味を綴ることが多かった。本書の中で紹介されるのは、川マスの塩焼、味噌かつ、そうめんちゃんぷるうなど。特別のごちそうでもないのに、この著者の筆にかかると、唾が湧いてくるほど食欲がかき立てられてしまう。
ところで、向田邦子のエッセイの魅力のひとつに、“思いがけなさ”がある。マクラから、どこへ連れて行かれるかわからないルートを通って、絶妙なオチで締めくくられる。これが、小説的なエッセイと言われる由縁ではないかと思うが、晩年のエッセイが多く並んだ本書は、その芸も磨きに磨かれている。
たとえば、「ハンドバッグ」という一編。マクラは、大佛次郎の『帰郷』という作品だ。亡命のような形で日本を長く離れていた父親が、十何年かぶりに娘と再会する場面をまず引いてきて、そこに登場する娘のハンドバッグから話を広げていく。
まず、自分のハンドバッグに老酒漬けのカニを入れておいて失敗した話が披露され、〈女のバッグには随分不思議なものが入っていることがある〉と続ける。チワワが入っていたり、アボガドがゴロンと一つバッグに放り込まれていた目撃話、さらにはバッグの大きさによる女の性格分析まで始めてしまう。絶妙な寄り道加減に、うなるばかりだ。
教養というのは、初対面のような相手とどれだけ豊かな話ができるかだと聞いたことがあるけれど、向田邦子のエッセイを読んでいると、すぐにそのことを思い出す。一度本を開くと、するすると引き込まれてしまうのは、まさに色も香もある女性との楽しいおしゃべりだからだろう。