向田邦子の代表作のひとつ、『父の詫び状』誕生には、ちょっとしたドラマがある。本人によるあとがきを読んでもらうのがいちばんだが、かいつまんで言う。
「銀座百点」の随筆連載(これがのちに本書となる)を引き受ける前、著者は乳ガンを患った。人気脚本家として活躍していた最中のことだ。幸い初期段階の発見だったため手術は成功したが、輸血が原因で血清肝炎になり、リハビリをしなければいけない時期に絶対安静を余儀なくされた。結果、右手の自由を失うのだ。
〈ひどい時は、水道の栓をひねることも文字を書くこともできなかった〉とある。
手術と闘病のため、番組は降板していた。退院してひと月後、連載を打診された著者は、この原稿を左手で書くことにして受諾した。
〈テレビの仕事を休んでいたので閑はある。ゆっくり書けば左手で書けないことはない。こういう時にどんなのもが書けるか、自分をためしてみたかった〉。
発見から手術までの経過に、不安も残していたらしい。あやふやな生を抱えて、〈誰に宛てるともつかない、のんきな遺言状〉のつもりで書いたという気丈さに、この著者らしさが透けて見える。
文芸評論家の谷沢永一氏は、本書を〈生活人の昭和史〉と評した。癇癪持ちで居丈高で不器用な愛情表現しかできない父と、我慢強くて行き届いていて気のいい母のいる家庭で、可愛がられ躾けられ叱られる向田家の4人きょうだい。向田邦子は視覚的な文章を書くと言われるが、24本の随筆はどれも一話完結のテレビドラマを見せられているかのよう。昭和の風景が、目の前に鮮やかに立ちのぼってくる。
読む人によってどれが好みかはいろいろだろうが、私が気に入っているのは、「ごはん」と「海苔巻きの端っこ」である。どちらも食べものの記憶と人生の味がかっちり結びついている。
「ごはん」に出てくるメニューは二つある。一つは、空襲の余燼の中、死ぬことも覚悟して両親が用意しくれた炊きたてのごはんやさつま芋のてんぷら。戦時中では精一杯のごちそうだ。とっておきの材料を使ったというおいしさもあったが、最後の食事になるかもしれない重苦しさも一緒に味わった。
もう一つは、小児結核にかかった邦子が通院帰りに母から食べさせてもらう鰻丼だ。娘の養生にと奮発するが、家計にゆとりがあったわけではない。注文は1人前だけ。邦子は、母を差し置いてひとり箸を動かす味気なさ、ほかの家族には内緒といううしろめたさを感じながら食べる。
こうした体験が、その人の人間形成に影響しないわけはない。どんなひどい状況にあっても小さな喜びを見出し、そのくせ痛みもきちんと引き受けていく。著者の文章からは常に、情感と理知を感じるのはそのためだろう。
「海苔巻きの端っこ」に登場するのは、海苔巻きと、鱧料理である。
大人になって味わった、冷や汗ものの鱧料理の顛末は別の機会に譲るとして、ここでは海苔巻きの端っこの話をする。
邦子が子どものころ、母が遠足の朝作るのは決まって海苔巻きだった。その端っこを、父と取り合うのだ。母は父を立てて、父に食べさせようとするから、邦子は母が小皿に盛りつける前に、すばやく切れ端に手を伸ばさなくては食べられない。
普段から端っこ好きなのは邦子のほうで、父は羊羹でもカステラでも真ん中が好きなのに、海苔巻きだけは端っこを食べたがる。大人とは何と理不尽なものかと憤る少女期の邦子を想像すると笑ってしまう。
端っこ好きなのは、海苔巻きに限らず、かまぼこやサラミ・ソーセージなどの端っこも好き。邦子は、写真を撮るときや、映画館や喫茶店でも隅っこにいることが多かったらしい。
〈端っこや尻っぽを喜ぶのは被虐趣味があるのではないかと友人にからかわれたが、これは考え過ぎというもので、苦労の足りない私はそんなところでせいぜい人生の味を噛みしめているつもりなのだと理屈をつけている〉。
そんな物言いがとても可愛らしく思える。
ちなみに、本書に描かれる家族のエピソードには戦後のものもあるが、強い印象を残すのは、著者がまだ幼かった戦前のものだ。客人の靴を揃えている邦子の背後から様子を窺っていて、その揃え方にまで口うるさい父。宴会の折詰めを持って帰り、子どもたちを起こしてまで食べさせたがる父。子どもたちのためにカルメ焼き(ザラメと重曹で作る駄菓子)を作るがなかなか成功せず、当たり散らす父。
もっとも著者の父に限らず、昭和40年代くらいまでは父親という生き物はみな頑固オヤジだったから、この父親の理不尽さは驚くに値しない。私のような昭和の子どもにとっては懐かしい気さえするのだが、平成生まれはこれをどう読むのだろうか。