アルベール・カミュには、愛する祖国が〈悪〉に加担しているならば、自分も進んで悪たらんと欲する苛烈な愛国心があった。アルジェリア育ちのフランス人であるかれは、愛する祖国がドイツに蹂躙される怒りと屈辱のなかで、「きょうママが死んだ、もしかしたらきのうかもしれないが、おれにはわからない」という有名な書き出しからはじまる『異邦人』(1942年)を書いた。主人公のムルソーはなりゆきから現地人を殺し、判事に理由を問われて、太陽が黄色かったせいだと嘯き、反省することもなく、最後には神を呪う。ふてぶてしくも壮絶な作品である。カミュは帝国主義の時代の、最後の小説家だった。
だが、もはや「カミュのように書く」ことは許されない。そのことに誰よりも自覚的な作家がジョン・マックスウェル・クッツェーである。クッツェーは、アフリカーンスでありながらアフリカーンス語ではなく英語を話し、ヨーロッパ文学の教養を身につけ、イギリス社会のなかで生きている作家であり、文学部教授だった。どうやらかれには、いつか南アフリカを追われる日が来るに違いないという不安があったようだ。恐怖は身体化されていただろう。
よそものであることを意識せざるを得ないような出自なのである。クッツェーは1940年、オランダ系植民者(アフリカーナー)の父と、アフリカーナーとドイツ系植民者の娘である母のあいだに、ケープタウンで生まれたアフリカーンスである。アフリカーンスは南アフリカにおいてはほんらい主流派であるのだが、しかしかれは両親が英語を話していた関係上、「偽のイギリス人として」、イギリス人の通う学校へ通った、「偽のイギリス人であることがばれて」いつ退学させられるかびくびくしながら。無宗教でありながら、ローマ・カトリックと偽りもした。学校には鞭をもった教師たちが勢揃いしている。「家では英語を話し、学校では常に英語でトップを維持しているので、かれは自分をイギリス人だとおもっている。姓がアフリカーンスでも、父親がイギリス風ではなくてアフリカーンスに近くても、自分が英語訛りをまったく交えずにアフリカーンス語を話すにしても、かれはアフリカーナーとしては一瞬たりとも通用しない。かれが操ることのできるアフリカーンス語の範囲はあまりに狭く、実体がない。本物のアフリカーンスの少年たちには自由に操るスラングと隠語----卑猥な言葉はその一部にすぎない----から成る、きわめて濃密な世界があって、そこには絶対に入りこめないからだ。」(1)
南アフリカにはいまだ単一の文化が存在していない。当時、そして長いあいだ、アパルトヘイト法のもとに社会のあらゆる領域が、(士農工商ならぬ)、白人用、白人と現地人の混血用、アジア人用、黒人用に、分断されていた。
しかも白人といっても、イギリス人とオランダ系移民ではイギリス人の方が「上」というような微細な差別さえある。さらにはイギリス人は英語を話し、アフリカーンスはアフリカーンス語(というオランダ語をベースにさまざまな言語の影響を受けた一種のクレオール語)を話す。カラードと黒人のあいだにも差別はあり、黒人がもっとも地位が低く、バカにされ、社会のみじめな場所に囲い込まれていた。(ちなみに日本人は貿易上のお得意様であったがゆえ、名誉白人枠だった)。レストラン、ホテル、列車、バス、公園、公衆トイレにいたるまで、公共施設はすべて、分離が適用され、たとえば黒人が白人専用の公園に立ち入ろうものなら、即座に逮捕された。黒人学校の生徒は、白人によって演出された劇の上演に参加することはできなかった。外国のオーケストラの演奏会やポピュラー・ミュージックのコンサートに黒人が来場し耳を傾けることも熱狂することも一切できなかった。たとえば白人と黒人が同時に交通事故に会ったとして、白人用の救急車に、黒人を乗せることはできなかった、黒人は黒人用救急車を待たなければならなかった。(2)
クッツェーはケープタウン大学で英語と数学の学士号を取得。イギリスでコンピュータープログラマーとして働きながら、文学研究をおこない、その後、渡米して、英語、言語学などを研究し、サミュエル・ベケット初期作品の言語学的研究で博士号を取得した。バッファローのニューヨーク州立大学の教壇に立ちながら作品を書きはじめたものの、ヴェトナム反戦運動にかかわったために永住許可が下りず、南アフリカに帰国を余儀なくされる。かわいそうに、よりによってこの時期に南アフリカへ戻りたいと願う者がいったい誰がいただろう? さまざまな国が独立しアフリカの年といわれる1960年、そして南アフリカ共和国としての独立した1961年、(アメリカにおけるアフリカンアメリカンたちの公民権獲得運動の追い風も受け)、反アパルトヘイト運動が巻き起こるのだが、しかしそれは1960年のシャープヴィル暗殺事件から1966年の首相暗殺事件へとつづく最悪の時期であり、社会は大混乱に陥っている。恐怖というものは、ただひたすら怖いものである。どこの国にせよ不穏な場所というものはちょっと歩けばすぐにわかる、きんたまがすくみあがり心臓は早鐘を打つ、身の毛がよだち、ぶるぶる震えが止まらない。1972年クッツェーは失意とともに、そんなきわめて不穏な場所になり果てた南アフリカに戻り、そして英語作家としてデビューするのである。(3)