主人公山尾信治は色版画工。中年兵としての召集で、衛生兵として朝鮮に送られる。山尾は召集のとき「ハンドウをまわされたな」といわれ、自分が教練を怠けて懲罰的に召集されたことを知る。
そしてやがて、彼にハンドウをまわしたのが役場の兵事係長であることが判明する。
ハンドウをまわすことができるということは、逆に、意図してハンドウをまわさないこともできるということである。小役人の気まぐれな選択が、男たちの(ひいてはその家族の)生殺与奪を握っていたという恐ろしい事実。
軍隊生活では、日本陸軍のあの悪名高い「私的制裁」が待っていた。要領の悪い山尾は古参兵の標的となり、陰湿に、そして徹底的にいじめ抜かれる。
やがて終戦。復員した山尾を待っているはずの家族は、疎開先の広島で原爆によってみんな亡くなっていた。無残。
山尾信治の壮絶な復讐劇が始まる。役場の兵事係長だった男に接近し、周到な計画を練り、ついには殺害する──。
この『遠い接近』の前半部分、つまりハンドウをまわされて従軍し、復員するまでのストーリーはすべて、中年で召集されたことも、ハンドウをまわされたことも、衛生兵だったことも、朝鮮に送られたことも、要領の悪い兵隊で私的制裁を受けたことも、清張自信の体験と重なる、と著者森史朗は書くのである。
山尾信治と松本清張の無念は同じだと。国家権力や軍組織や戦争の理不尽さに対する山尾と清張の怒りと怨念は同じだと。
清張担当の編集者だったころ、夜討ち朝駆けで何度も浜田山の清張邸を訪れ、何度も清張と炉辺談義をした著者だが、軍隊体験についてこの作家が積極的に話すことはなかったという。
ただ、炉辺談義の言葉の端々から、あるいは清張のほかの著作(自伝を含め)の記述などから、著者は謎を解くようにひとつずつ、作家自身と作品『遠い接近』との密接な関係を明らかにしていく。
だから、本書は作家論でありドキュメントでありながら、まるでミステリーのように楽しめる。
そして、たぶん担当編集者としての作家への畏怖の念が随所にちりばめられているからだろう、陰惨な話の連続なのに、不思議と読後感は清々しい。
本書を読めば、必ず『遠い接近』を読みたくなるが、かくいう私も『遠い接近』を読んだことがなかった。
本屋(神保町)に走ったが「すいません。在庫切れてます」。次の本屋(新宿)も同様。急ぎ方向転換して図書館に駆けつけ、借りたという次第。だいぶ古い本だから仕方ないが、とても手に入りにくくなっている。文春文庫とカッパノベルズ、あと松本清張全集(文藝春秋)にある。