惜しまれつつも昨年亡くなられた城山三郎は、言うまでもなく戦後文学の巨匠だった。過酷な戦争体験を起点としながら、彼は政治や経済といった分野に精通し、その世界で生きる人間たちを、ときに厳しく、ときに温かく見つめ続けた作家だった。企業社会の魑魅魍魎や、その舞台で繰り広げられる人間たちの喜怒哀楽を描き切る。そうした視点そのものは決して目新しいものではないのかもしれないが、日本の高度成長を陰で支えてきたのは、こうした小説に出てくる登場人物たちなのではないだろうか。まるで自分の父親が働いていた頃を思い出すような、そんな心持ちで『毎日が日曜日』を初めて読んだ。
この長編は、もともとは昭和50年(1975年)の二月から、読売新聞の朝刊に連載され始めたものであり、のちにベストセラーとなった昭和の大衆文学のひとつだ。思えば当時僕は高校二年生。自分の父親にも、あるいは毎日のように満員電車へと乗り降りする背広とネクタイ姿の大人たちにも、まったく想像を巡らせることが出来なかった生意気ざかりの青年期にあたる。いやあ、若気の至りとはいえ、恥ずかしい。
東京の丸の内に本社オフィスを構える一流総合商社に勤務する主人公の沖。彼は典型的な企業戦士であり、過去の海外出張を含めてそれなりの活躍もしてきたが、左遷のニュアンスを含んだ京都支店への人事異動を、ある日突然言い渡される。そこからこの小説は滑り出していくのだが、沖はこの時48歳。そこはかとなく哀愁を感じさせる年齢でもある。
沖の性格はといえば、仕事とがっぷり四つに組む真面目人間である反面、建前や社交辞令だけでは納得出来ない、どちらかといえば不器用なタイプ。京都支店の責務ともいうべき重役や得意先のおもてなしだけでは満足出来ずに、無謀とも思える新規プロジェクトのことを夢想してしまうような熱血肌の持ち主だ。一方でそんな沖と対照的に描かれるのが、沖の先輩である笹上という定年を迎えた人物だ。昇進もままならない代わりに蓄財や投資に長け、勤務していた頃から店舗貸しなどの個人事業に精を出し、老後に備えていた自己保全的な笹上。そうした二人を軸にしながら、また彼らの同僚や家族など周辺の人々も微妙な伏線としつつ、物語は展開されていく。脇役としてとりわけ興味深いのが、第一線を退きつつも今なお会社に執着する泥臭い相談役と、スマートな処世術にも長けた現社長との対比だろうか。相談役のバイタリティを今なお支えているのが、戦後の日本経済を支えた第一世代としての強烈な自負や闘争心だとしたら、現社長の方はそうした大言壮語や傍若無人ぶりを煙たがっているような。
本書に一貫しているのは組織と個人、企業と家庭といった対立軸を浮き彫りにしながらも、人間というものを愛し、信頼を寄せる城山三郎の大きな心なのかもしれない。当時一部の運動家などからは搾取の根源とまで批判を浴びた総合商社を舞台に据えた着眼点もまた、戦後著しく飛躍した日本経済を映し出す鑑として説得力があるし、華やかに活躍する前線の商社マンの後方には、無数の名もない社員たちの蓄積があるといった視点も、人々の共感を呼ぶことだろう。
非正規雇用人口の増大や格差社会の到来、徹底した成果主義の導入や行き過ぎた自由経済~規制緩和など、社会をめぐる昨今の現状から振り返ってみると、良き時代の企業小説と思われる方も、いらっしゃるに違いない。何しろこの書では終身雇用制が前提になっているし、メールや携帯電話も出てこないのだから。しかしながら根底の部分では、人はいつも企業と個人との超克すべき問題を、どんな時代であれ、変わることなく日々抱え、発しているような気がする。
そうした意味でも本書は、山崎豊子の大河小説『沈まぬ太陽』のように、企業人の壮大な人間ドラマとして、今後もきっと読み継がれていくはずだ。