今さら、この作品を紹介する必要があるか? と思いながら読み終えて、やはり読んでいない人は読むべき本だと思った。傑作とされる作品のレビューは重い。
1945年8月6日の広島で何があったかは「知っている」ことになっているが、さて、普通に暮らしていた人たちがあの一瞬のあとの日々をどう過ごし、一人一人がどういう苦しみを味わったか「知っているか?」なのである。それをじっくり読ませてくれる小説だ。
私が手にした文庫本の『黒い雨』は、
昭和45年6月25日 発行
平成15年5月30日 61刷改版
平成18年6月10日 67刷
この67刷である。
昭和41年1月から次の年にかけて文芸誌に連載された戦争文学の傑作とされる。今だったら「文学」とはいわず、ノンフィクション・ノベルなどというかも知れない。これはこれで奇妙な命名だが、どう呼ぼうとこの作品は非常に存在意義の大きな小説だと思う。
昭和20年8月6日の広島を体験してしまった夫婦とその姪という三人の「それからの暮らし」が描写されている。
ある事情があって、原爆投下の直後から、自分たちがどういう行動をとったか思い出さなければいけなくなる。
その瞬間、言葉にできないような衝撃を受けて、それがなんだか把握できないし、何も考えることができなかった。少し時間が経ってから、とにもかくにも生き延びて「しまって」から、あの日、それぞれがどこで何をして、生きていることをどんな風に確認して、どうやって帰り着いたかを思い出しては書き募っていく。
その瞬間に死んでしまうことなく「運良く」生き延びた人たちがまずは肉親を気遣い、探し、友人知人を思いやり、しかもなお自分たちの生活を守り続ける様子が淡々と語られる。「井伏鱒二節」とでもいうか、気負った怒りや問題意識を生のままで出すようなことはなく、助かった人は被害を受けた人を助け、ある場合には症状の重さに諦めて立ち去り、焼けこげた死体に涙し吐き気を催して歩き回る。
○○学校はどうなりました? なくなりました。「亡くなり」ましたではなく、原子爆弾の熱と爆風によって跡形もなく消えてしまったので「無くなり」ました、というのが事実。
この本を読んで、今さらながらだけれど気づいたことが一つ、生きて原爆の被害にさいなまれた人々は、その時点で「終わった」のではなく、そのあとも15日が来るまでは戦争を続行する国の国民だったこと。数え切れない人が傷つき、目の前で死んでいくときにもまだ軍人が威張り散らし、大きな被害を受けたことおおっぴらに言いふらすなといい、食糧や燃料も、傷ついた人を運ぶ交通機関も軍事優先なのである。
高熱で皮膚がただれた人が群をなしている中、落とされた爆弾が何かわからないわけだから、肉親を探し知人を探し生徒を探しする人々が知らずに放射能を浴びて、次の日になって原爆症で死んでしまう。爆心地から離れたところから市内に入って救助活動をした人がばたばた死んでしまう。これもひどく残酷である。世界初の被爆だから、対処法を知っている者がいない。焼けただれた皮膚に塗るものがないのだ。
どんなにむごい描写も読まなければ意味がない。そう思って必死に読んだ。
私は、若い頃この本を手に取っているはずだけれど、読み終えた記憶がない。途中で放棄したのだろう。
広島の原爆について書かれた本はこれまでに何冊も読んだが、被爆してなお日常生活を送り、その中で原爆症のせいで死んでいくのを延々読むのは意志の力が必要だった。
被爆した人同士が助け合っても、片方が今日死に、もう一方が明日死ぬ。そうした中で、助かったもの同士の妬みや、原爆症がやがて発症するのではないかという恐怖、あるいは、被爆した者を差別するような感覚が芽生えていく。そのあたりが徹底して人間だ。
前に読んだ本で知ったことだけれど。
広島に原爆を落とした飛行機が戻った基地では、ありったけのビールを用意して待っていて、大パーティーが催されたのである。
太平洋戦争、またの名を大東亜戦争について書かれた本を読むということは、そういうことを少しずつ知らされることなのだ。