日本人、いや、日本という「ネイション」には、8月に死に関する2つの重要な記憶がある。いうまでもなく一つは終戦の日、もう一つは盂蘭盆(お盆)である。どの地点を持って「終戦」と呼ぶかは恣意的でありながら、8月15日がそれとされているのは、「盂蘭盆との関連から来ている」と指摘されることも少なくない。1年12ヶ月のうち、8月は最も死者と親和性の高い月と言えるだろう。
いわゆる「戦後文学の旗手」と称されることの多い梅崎春生の出世作『桜島』は、昭和20年7月から8月にかけて、鹿児島の坊津と桜島を舞台とした小説である。坊津、という古い地名は今はなく、南さつま市という、いかにも行政区分的な起伏のない名前になっている。坊津は、古来遣唐使を派遣した由緒ある小さな美しい港町で、「右の耳が無かった」妓=娼婦と最後の一夜を共にした「私」は、「そして貴方は、そこで死ぬのね」「死ぬさ、それでいいじゃないか」という会話ののち、翌早朝、米軍の上陸に備えて桜島に赴任する。「私」は暗号兵で、敗色濃厚な状況の中で半ば以上に死を覚悟している。
桜島で新たな生活をスタートさせた「私」だが、しかしそれは人生最後の季節のはじまりである。いったいそのような生活、そのような時間は人間にとってはじまりなのか終わりなのか。奇妙に宙吊りにされた時間がそこに横たわる。米軍はなかなか上陸してこない。状況にさしたる変化も見られない。
そんな凪のような日々の中で、死を覚悟しているはずの「私」を圧迫してくるものが「他者」と「自然」である。
吉良兵曹長。「奥底に、マニヤックな光をたたえている。常人の眼ではない。変質者の瞳だ」と表現される、「私」がまったく受け付けることのできない、徹底的に異質で、部下に理不尽極まりない命令を発するこの男の存在が、やがて「私」の中に浸透してくる。「私」のほうも実は吉良に影響を及ぼしているのだが。そうして不可避の浸透はやがて化学変化を起こし、生に対する執着がおもいがけず顔を出す。
桜島の「自然」を眼の前に引き寄せる梅崎春生の文章は、あくまで濃密で、端正で、美しい。まったく無駄がなく稠密であり、しかも息苦しい状況を描いて言葉の運動がまったく息苦しさと無縁であり、さわやかな風通しにあふれている。たぶん梅崎春生の作家的特質の一つだと思うのだけれど、この作家は時に「光」を「光線」と書く。するとすべての景色が絵画的な相貌をあらわす。風景も情景も近景も遠景も、作家の文章の中で光景として美しく配置されるように思う。茶褐色のかたい小さな梨」も「毎晩、ああやって燃えているのです」という、遠望される鹿児島の市街も、「サキノ敵船団ハ夜光虫ノ誤リナリ」と報告されるその夜光虫も。そしてそれらの梨や赤い焔や夜光虫が「私」の中に浸潤し、また「私」は私がわからなくなる。
この8月1日に新潮文庫から「復刊」された『桜島・日の果て』は、「桜島」「日の果て」のほか「崖」「蜆」「黄色い日日」と5つの短編を収める。「崖」では、加納一等水兵という不敵な男が「私」を揺すぶり、「蜆」では、結果的にまんまとせしめてきたリュック一杯の蜆が、夜中に「プチプチという幽かな音」「何かを舐めるような音」と共に啼き出し、「俺」を動揺させる。
「桜島」には、「私」が自分の身内に起きた感情を客観的に分析しようと務めるような記述がしばしばあらわれる。それらは一見すると、小説が淡々と築いてきた場の均衡と破綻の予兆を、「私」の心情で説明してしまう野暮な行為に見えなくもない。しかしそれで梅崎の小説がけっして壊れないのは、そうした「私」の自己言及がこの小説の何を集約するわけでもなければ象徴するわけでもなく、それらの感情は「他者」によってたちまち玉突き事故のように別の局面にさらされる構造になっているからである。「私」の自己分析をあくまで中心に置き、「他者」や「自然」を周縁ないしは道具の位置に貶めるような創作態度を作家は採用しない。「私」がその都度必死に考え出す言葉も思考も、桜島にあるすべてのものと同じく、梅崎的「光線」の中で光を浴びている。
「桜島」のラストは、いわゆる玉音放送が流された直後の、吉良兵曹長と「私」との異様な緊張と、そのあとにやってくる弛緩を描いている。戦争は「終った」。ここから新たな「戦後民主主義」がはじまるわけだが、「桜島」の登場人物たちはそんなものとは無縁のように見える。彼らには過去をご破算にした新生活などはなく、ただ少し種類の違う終わりのはじまりがあるに過ぎない。
新潮文庫のカバー、香月泰男の装画『桜島』にある、茶色と茶色と茶色の光景があまりに美しい。