ジャケ買い、という行為がある。「側」(がわ)を見て、「中身」も「良さそう」と判断するアレである。平松 剛氏の前著『光の教会安藤忠雄の現場』の時がまさにそれだった。建築の本など、これまで5冊と読んだことがない自分に、いったいどんな魔が射したか。ジャケ買いの説明として、テキスト(CD等の場合は音楽)のクオリティの高さに装丁家ないしはデザイナーが呼応し、緊密な宇宙=パッケージが築かれた、みたいな物言いがあって、正しいとは思うのだが正しすぎるというか、だいいち少しも説明として面白くなく、もっと神秘的な「なにか」がそこにはあるように思う。視覚だけでない、五感に動員がかかるような、視えない「なにか」が作動する感じ。
で、この度の著作。今回はもちろんジャケ買いではなく、「あ、あの時のジャケ買いの人!」という買い方である。もちろん、どちらも和田誠装丁という意匠があってのこと。これは外せない。
バブル期最後の負の遺産、みたいな言われ方をしてきた東京都庁舎だが、本書は、バブル崩壊直後の1991年に落成したこの建物の、いわば前史である。9つの建築事務所・会社に対する指名コンペを舞台に、最終的に「勝利」した丹下健三と、「敗北」した磯崎新、2人の建築家の師弟対決を描いていく。著者は、章を追うごとに2人の建築家の決定的な相違と際立った対照ぶりを、的確なキーワードとともに提示する。常に国家とともにあった丹下と在野の磯崎。「軸」の師と「空間」の弟子。特に、プロポーションの美しさに定評があり、建築を外観=視覚として捉える丹下に対して、弟子の磯崎新が、自身の不可思議な空間体験などとあいまって、建築とは、建物内部に身を置く人間が、背中で感じることなども含めた五感すべてで受容する何ものかであると考えるにいたるプロセスの記述は、磯崎新という建築家の秘密に迫る、本書の白眉といってよいスリリングなものだ。
そして『磯崎新の「都庁」』という本を特徴づける最大の魅力は、圧倒的な読みやすさと語り口のおもしろさにある。ここには批評の排他性や、アグレッシヴな切り口で読者の前に聳え立つような、高層建築的ハッタリがまるでない。多くの人々、個々に異質な読者が自由に出入りできるような、まさに磯崎的「低層建築」というか、長屋みたいな本なのである。建築について書かれた本が、これほどリーダブルで、専門外の人間をグイグイ惹きつけるのはなぜだろう。まず、人間ドラマとしてのおもしろさがある。主役の磯崎新を、グルメでギックリ腰の「親分」としてとらえた視点はあくまでも大胆である。磯崎新を支える複数のスタッフたちも、それぞれ繊細な目鼻立ちを持っている。次に、建築の技法や趨勢について、平易に記述しながら解説臭がまったくないこと。さらに、コンペの当時(80年代半ば)と過去(磯崎の幼少時代や駆け出し時代)を自在に往復し、少しも混乱しない筆の軽やかさも見事だ。
本書には、物語の大筋とはやや離れたところで、しかしけっして見逃せない事実やエピソードも散りばめられている。建築界の天皇とまで言われた丹下健三が、最後まで頭が上がらなかった陰のフィクサー、岸田日出刀の存在。都庁コンペの主催者である東京都と、当時の鈴木俊一都知事の権力や既得権益の構造。はたまた、亡き父親の縁で、磯崎新が、大江健三郎の師としても知られる仏文学者の渡辺一夫の書生を務めていたという事実や、磯崎事務所でこぞって村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に読みふけり、あの不気味な「やみくろ」に深い関心を持った逸話などなど…。
『磯崎新の「都庁」』は、批評でもなければドキュメンタリーでもない、小説でも、エッセーでも、研究書でも専門書でもない。
これは、ショーである。現に新宿にある都庁ではなく、磯崎新による、ありえたかもしれない、しかし実現しなかった都庁舎をめぐるショー。
しばしば磯崎新は、「見えない都市」という概念を語ったが、それに倣っていえば、「見えない都庁」ショーである。著者は、サービスの人、エンターテインメントの住人なのだ。どんなに長い取材の歳月をかけ、多くの参考図書を狩猟しようとも、これは正しくエンタメの仕事なのだと思う。
だから装丁は、そう、今回も和田誠でゼッタイに正しい。