ソ連のアフガニスタン侵攻とそれに続く内戦、タリバンの台頭と二十年の長きにわたって続く戦争で、物語の舞台となる首都カブールは破壊し尽くされていた。
〈まるで世界が腐りつつあり、その腐敗がここ、パシュトゥーン人(アフガニスタンの人口の約4割を占める民族)の地から広がるのを選んだかのようだ。同時に砂漠化は人々の良心、ものの見方を通して容赦なく爬行を続けている。〉
『カブールの燕たち』の悲劇は、その荒廃した空気の中、崩壊していく2組の夫婦を軸に描かれる。
死刑囚拘置所の看守をしているアティクと、不治の病に冒され、死を待つばかりの年上妻ムサラト。仕事と看病に追われ、家庭生活はとうに形ばかりのものとなっている。アティクは、妻が天に召されることを祈ることさえある。
もう1組は、ブルジョア出身のモフセンと、名士の娘でかつては司法官だったという美貌の妻ズナイラ。深く愛し合っていたこのインテリ夫婦も、荒んでいく社会の中でいつの間にかお互いを理解できなくなっている。
物語の幕開けは、血なまぐさい公開処刑の場面だ。アティクが処刑に送り出した売春婦は、モフセンの目の前で血のいけにえにされようとしている。
だが、その日のモフセンは人間らしさを忘れ、猿轡をされた無抵抗の女に向かって、衝かれたように石を投げてしまう。うち一発が女の頭に命中し、血が流れた。それを見て「言い知れない喜び」を感じたモフセン。自分を信じられなくなったという懺悔も込めて、モフセンはその出来事をズナイラに打ち明ける。しかし、知識人でいまなお聡明さを失わないズナイラにとって、夫が暴力的な民衆と同じ位置まで堕落したことのショックはあまりに大きかった──。
階層の違う2組の夫婦は、それぞれ修復を試みはする。だがその行為は、互いの亀裂を広げるだけでなく、真実を暴き、互いの運命を分かちさえしてしまう。
ムサラトは、病身にむち打って、健康で家事のうまい妻らしく振る舞おうとし、アティクは「俺も夫婦の義務を果たそうとしている」「おまえにはなんの恨みもない」と慰める。それに自信なさげにうなずきながら、ムサラトはこうつぶやかずにいられない。
〈いちばんうまくいっていたときでさえ、あたしたちは本当に愛し合っていたのかって……〉
一方、モフセンは、昔のように連れ立って散歩に行こうとズナイラを誘う。だが、厳格な規律を押しつけるタリバン支配下では、女性はチャドルを身につけなければいけない。女たちを、〈恐怖あるいは狂熱の色合いの屍衣にくるまれたミイラ〉〈衰えていく燕の大群〉に見せるチャドルを、ズナイラは心底嫌っていた。それでもズナイラは折れて、街に出かけていく。
結果的には、外出先でのある出来事が、ズナイラのモフセンに対する信頼を粉々に打ち砕く。そして2人の間に取り返しのつかない事件が起きて……。
物語が終盤にさしかかるあたりで、アティクは公開処刑を待つひとりの女囚を収監する。アティクは偶然見てしまったチャドルを脱いだズナイラの美しさに一目惚れし、途端に気力を取り戻し始める。そして、彼女の無実を盲信し、どうにか逃がそうとまでするのである。
だがズナイラは、すでに死を覚悟していた。牢屋の扉を開け、「あなたを殺させたりするものか」と語りかけるアティクに、ズナイラはこう返すのだ。
〈わたしたちはみんな殺されたのよ。もう思い出せないほどずっと昔に〉
物語が進むにつれ、際立っていくのはアティクやモフセンら男の愚かさと憐れさ、ズナイラやムサラトが見せる女の高潔さと真っ当さである。著者は2人のヒロインを配し、どんな状況下でも、人が人らしくいることの尊さを訴え続けてくる。
本書は、『マイケル・K』『恥辱』で知られるノーベル賞作家のJ・M・クッツェー氏が絶賛。現在、作品が25カ国で翻訳されているというアルジェリア人作家、ヤスミナ・カドラのイスラム原理主義三部作の第一作めに当たる。
ヤスミナは女性名で、デビューから15年以上、その正体はおろか、男性作家であることも伏せられていたらしい。というのも、デビュー作がフランスで出版された頃は、カドラはアルジェリア軍の上級将校だったからだ。そのため彼は、2001年に家族とともにフランスへ亡命する。
日本では他に、イスラム原理主義三部作の第二作め『テロル』も翻訳刊行済み。こちらも、裕福なアラブ系医師の妻が自爆テロの首謀者だという衝撃的なエピソードから物語が始まる。併せて楽しむのもおすすめだ。