日常は確かに退屈である。退屈であるがゆえに、小説の背景として効果的な場合もある。そこに、主人公の父子、隣人の兄妹、実業家の友人、ゲイの友人、さらには引っ越してきた母子など一風変わった人物を配している。鎌倉を舞台に、巡る季節のなかで織りなすありきたりの日常生活。ほとんど散歩や食事のシーンに終始している。彼らの対照的な視点やモノの考え方をあるときは交錯させ、あるときは短絡させる。会話が躍動し、変幻自在の彩りをつくりだす。毎日はあっという間に過ぎているのに、たゆたうように流れる時間が現出する。その日常はもはや平凡ではなくなる。
主人公の中野と息子のクイちゃんは、隣人の便利屋松井さんと妹の美紗ちゃんと一日の大半を過ごしている。主人公の中野は、「気の弱い人には絶対できない自殺例集」などのコンビニ本をつくっているフリーの編集者である。「収入は少なくても働いている時間を短くしたい」という労働を美徳としない生き方を選んでいる今どきの男だ。社会との親和性をゆるやかに保っているところがうらやましい。多忙を勲章のようにして生きていくことは、毎日を大切に生きていないのではないかと思わされる。たちまち飛び去っていく一日は、記憶の網をすり抜け、塵埃になって消えていく。
スローな日常は陰影に富み、凡庸な会話に高踏的な示唆がきら星のように含まれているのだ。随所にそれが発見できる。日常会話というガラクタから何を掘り出すか、読者はそこを求められる。
臨死体験に人並みに興味をもっている美紗ちゃんが中野に聞く。
「どうして死後の世界を見てきたっていう人たちはたいてい光がいっぱいだったって言うのかな」
「死後の世界っていうのは、物質の世界なのか?」
「え、精神の世界でしょ?」
「だって、光っていうのは物質だよ」
こんな軽妙な会話に引き込まれる。なぜ臨死体験には光なのか。全盲の人も臨死体験したら、光が見えるのか。精神と魂はどう違うのか。会話は組んずほぐれつしながら、散乱していく。言語体系が人間の精神をつくりだしたと松井さんが言う。鋭い。縄文でも平安時代でもよかったのに、人間を一回性と考えれば「情報の密度が違ういまの時代に生まれてきたのはすごいこと」であり、思えば不思議である。それでも「宇宙のエネルギーに比べて人間のエネルギーは小さすぎてバランスがとれていない」ことになる。論理のダイナミズムが痛快である。
臨死体験から話は転がり、人間は特別な存在ではないことに紆余曲折の末、到る。刺激的な会話について行くには、知識や想像力を総動員しなくてはならない。油断していると取り残される。読み進むと、心地よい疲れに変わってくる。まさに知的散歩をしたような疲れなのだ
保坂和志が縦横無尽に会話をミキシングし、ディレクションする。話の方向性を自在に曲げる。結論は必要ない。話題の展開スピードについて行ければ、快適な気分になれる。要は散歩の速度に合わせて、書かれているのである。話題がシャッフルされているように感じるのも、風景の目線が変わったタイミングに近い。徐々にこんな一日だったら、登場人物たちといっしょに過ごしてみたいと心境が変化してくる。いつの間にか、平凡が光芒を発し、奇矯は溶暗していく。記憶に残るのは、この何でもない人生の一日であることに最後は納得する。
毎日、僕は腕立て伏せを200回している。慣れたとはいえ苦しいが、そのあとに飲むビールがうまいからだ。よくよく考えてみれば、僕の日常だって小さな感動に満ちあふれているではないか。