壮大なストップモーションを目の当たりにする感動。『ねむりねずみ』の魅力とは、そこに尽きるのではないかと思いますね。
一般に考えられているミステリーの種明かしとは、作中で描かれる犯罪事件の真相が暴かれる瞬間を言うものだろう。だが、この小説ではその先がある。
長い人生の中では所詮、事件など点の出来事にすぎない。人は、日常と名づけられた半直線にぴったり寄り添いながら生きていくものなのである。その直線上に、何かがあったのだ。既に通過した地点Aから、今いるこの地点Bまでの長い時間に、日常を侵害するような異変が生じていた。気づかない間に、日常とは呼べないような日々を過ごしていたのである。本書のクライマックスは、ある人物がそのことに気づいた瞬間に訪れる。そのとき、淀んでいた時の運びは一気に加速し、本来の流れの姿を取り戻すのだ。これぞミステリーのカタルシスというべきではないですか。
二幕構成の作品である。第一幕で主人公となるのは、棚橋一子という若い女性だ。彼女の夫、棚橋優は、深見屋の屋号を持つ歌舞伎役者・中村銀弥である。富裕な家庭に生まれた一子には、役者の楽屋を訪ねるだけの父親のコネがあった。その特権を利用して彼女は優と知り合い、恋に落ち、短い期間で結婚に至った。しかし、幸せな結婚生活には陰が落ち始めていた。優の挙動がおかしいのである。
一子、今日の次の日は、なんていうんだ。
そんな問いかけから、すべてが始まった。ことばが、頭から消えて行く。夫の脳に、記憶障害が生じているのかもしれない。それが台詞を諳んじる必要のある歌舞伎役者としては致命的な疾病だということは素人でも判る。だが、病院での検査をしてもらいたいと懇願する一子を、優は頑として拒み続けるのである。そのことが露見すれば、大きなスキャンダルとなりかねないからですね。夫の病状は進行しているようにしか思えない。不安におびやかされた一子は、やがて心の安寧を失っていく。
第二幕の物語は、がらりと変わって変死事件にまつわるものだ。葉月屋こと小川半四郎の婚約者・河島栄が、謎の死を遂げたのだ。事件が起こったのは、小川半四郎と中村銀弥が夫婦役で舞台を務めていた「絵本大功記」の上演中である。観客たちの視線が交錯する、本来ならばもっとも事の起こしにくい時間帯に、何者かが栄の胸を刃物で貫き、死に至らしめたのだ。なぜか目撃証言がまったく得られないという不可思議な事件の謎解きに挑むのは、今泉文吾という駆け出しの私立探偵である。第一幕と第二幕、一見するとお話に断絶があるように思えるでしょう。そこが作者の巧妙なところで、二つの物語を接続させる瞬間を、可能な限り遅らせている。読者の目が舞台に馴染み、舞台装置の隅々にまで視線が行き届いた瞬間に、それまで舞台の一部を覆っていた幕を切って落とし、全貌を明らかにしようという狙いなのである。先に述べたストップモーションの効果が現れるのは、そのときだ。楽しみにして読み進めてください。
後半で主に語り手を務めるのは、映画の世界でいうところの大部屋俳優にあたる〈中二階〉の女形役者、瀬川小菊だ。今泉文吾は、彼の大学時代の同級生なのです。実をいえば、文吾が私立探偵として登場したのは、小菊にとって極めて意外な出来事だった。最後に知っている文吾の消息は、大学講師になったというものだったからである。なのになぜ、私立探偵などという素っ頓狂な肩書きを名乗るに至ったのか。気になる人は、『ねむりねずみ』の次作『ガーデン』(創元推理文庫)も読むこと。
近藤史恵のデビュー作は、第四回鮎川哲也賞を受賞した、一九九三年発表の『凍える島』(創元推理文庫)であり、この『ねむりねずみ』が第二作にあたる。しかし実は、先に脱稿していたのは『ガーデン』だったそうなのだ。だから本書では描かれることのない〈私立探偵・今泉文吾〉誕生の背景が『ガーデン』の中では克明に記されている。ネタばらしにならない程度に書いておくと、本書で登場して早々に文吾が発した「うん、まあ、出来れば難解な事件を解決したいけどね」という台詞が、それとなくヒントになっているのね。
近藤史恵は大阪芸術大学文芸学科の出身だが、もともと歌舞伎に関心があったことが同大学に進んだ動機である。その関心は演劇全般に及び、高取英の月蝕歌劇団に属していたこともある(高取の代表作の一つ『聖ミカエラ学園漂流記』に出演したこともあるそうだ)。そうした経験が、劇団の合宿中に起こる事件を描いた『演じられた白い夜』(一九九八年。実業之日本社)などでも反映されている。
今泉文吾が登場する作品は上記のほかに『散りしかたみに』(一九九八年)、『桜姫』(二〇〇二年。ともに現在は角川文庫)、『二人道成寺』(二〇〇四年。現在は文春文庫)がある。いずれも歌舞伎の演目と小説の内容が骨がらみで連結した作品で、登場人物の心理描写に卓越している。『ねむりねずみ』に魅せられた読者は、迷わず手に取ることをお勧めします。