『ラットマン』には負けたなあ。
読書に勝ちも負けもないだろうと笑われるかしらん。しかし負けた気がしてならない。
私は普段、付箋を準備して本を読んでいる。気になる箇所のページに貼るためだ。付箋の使い方は人によって違うだろうが、私の場合はもっぱら〈伏線〉回収のために貼るのである。作者は漫然と文章を綴るのではなく、なんらかの狙いをもって書いている。その狙いが透けて見える箇所があったら、そこに貼るのだ。最後まで本を読んだら、付箋の箇所を確認する。作者の企みを見過ごしていなかったかどうか。ミステリー読書の場合、八割は拾える。それ以下の場合、よほど私の注意が散漫だったか、作者が巧かったか、どちらかである。つまり負け、だ。『ラットマン』読書で、私は前半部の伏線の約半分に付箋を貼らず、見逃してしまったのである。悔しいなあ、もう。しかし、これは私が不甲斐ないのではなく、作者の道尾秀介が偉いのである、と往生際悪く言っておきたい。
『ラットマン』は、読者を不安にする。読んでいるうちに、何かが背後から忍び寄ってくるような気配を感じるようになる。悪意だろうか。それとも狂気だろうか。名づけようとしても輪郭さえなぞることができない。意地悪な靄の中に、掠め取られてしまうのだ。
主人公である姫川亮の肩越しに世界を覗きこむ形で物語は進んでいく。姫川は食品を扱う会社に勤めながら、高校一年生のときに友人たちと結成したSundownerというエアロスミスのコピーバンドを十四年間続けている。メンバーは、一人を除いてずっと同じ。最初にドラムを叩いていたのは、彼の恋人でもある小野木ひかりだった。その後ひかりは妹の桂を後釜として紹介し、自分はバンドを抜けてストラト・ガイに就職した。ストラト・ガイとは、Sundownerが結成以来使い続けているスタジオの名前です。
本書の前半部で、姫川には不幸な事件を体験した過去があることが明かされる。家族が不測の事態に巻きこまれて亡くなったのである。そのことによって彼がどんな心の傷を負ったのか、家族がどのように変容していったのか。また、姫川が現在抱えているらしい問題と、過去の事件が関係しているのかいないのか。そうした心理の背景については、作者は巧みに言葉を選び、あからさまに語ることを避けるのである。ただ、心の中に鳴動するものがあるのだろうということは、彼が時折見せる荒んだ行動から容易に察することができる。たとえば、ハリガネムシに体内を食い荒らされたカマキリを見かけた姫川は、少しもためらわずにそれを踏み潰すのである。
並び立ち、同じ方向を見ている人がいることを想像してみてくださいな。ふと気づいて横顔を覗きこむと、彼の瞳は救済しようもないほどに暗く淀んでいたのである。その瞬間、あなたは理解するはずだ。よく知っていたはずの人物のことをまったく理解していなかったということを。すぐそこにいるのに、真情をとらえることがまったくできない人間として、作者は姫川を描いている。読者の不安の根源は、八割方この姫川から発せられているのだ。
物語の核となる事件が起きるのは、ページ数の半分近くが費やされた時点である(つまり、かなり遅い)。だが、読者は一切もたつきを感じないはずだ。前半部では、姫川の内部にある謎めいた鬱屈がいやらしいほどの存在感をもって語られる。その形を見極めようと躍起になっている間に、いつの間にか事件が起き、読者は非日常の空間へ吸いこまれてしまうのだ。事件が殺人を伴うもので、犯人による隠蔽工作が行われるということは書いておこう。単なる激情の犯罪ではないので、事件そのものの成り立ちについて推理を働かせることを好む読者にも十分アピールする内容であるはずだ。また、その謎をめぐって複数の解が提示され、二転三転のどんでん返しの後に真相が明かされる。
道尾作品では、二〇〇五年の『向日葵の咲かない夏』(新潮社)と二〇〇七年の『ソロモンの犬』(文藝春秋)に仕掛けられたどんでん返しが素晴らしく、特に前者では呆然とするほど驚かされた記憶がある。本書における物語の転覆はそれほどに大仕掛けのものではないが、それなりに意外性はある。
おそらく道尾は、自分がどんでん返しのようなミステリーのギミックだけに頼る作家ではないことを本書で証明したのでしょう。本書は第一に姫川の物語なのであり、ミステリーとしての仕掛けはそのストーリーを補強するために使われている。かなりの労力を費やして前半部が組み立てられているのも当然のことだ。姫川という人物と、その周囲の人々との関係が存在感をもって読者の中で立ち上がってきた時点で、作者の勝ちなのである。ミステリー的な伏線にばかり拘泥していると「負け」るというのはそういうことだ。もっと根源的な心理の動き、人情の機微に注目していないと、間違いなく結末でしてやられることになる。
題名の『ラットマン』とは認知心理学で用いられる有名なだまし絵のようなイラストのことで、鼠のようにも人間のようにも見える肖像画である。与えられた情報次第で、どちらにも見えてしまうのだ。作者は、何を、何に見せようとしているのか。もしくは、見せるふりをしているのか。じゅうぶん悩んで、私と同じ靄の中に沈んでみてください。