この本の素晴らしさを伝えるのは、たいへん難しい。
カタチとしては絵本なのだが、いわゆる「絵本」に入っているはずの夢や希望や明るさや善意や教訓といったものは、ここには一切ない。夢というよりも、悪夢。希望というよりも、絶望。明るさというよりも、薄暗さ。善意というよりも、悪意。教訓というよりも、無意味。そんなものが詰まっている。
たとえば、右ページに、雪に半分埋もれた大ぶりなトランクの絵がある。細い線でカリカリと描かれたモノクロームの、なにやらいわくありげなトランクの絵。トランクの蓋は閉まっている。
左ページには、It was in the trunk Presumably.という原文と、その和訳がある。
〈さっするに/トランクの/なか。〉
それだけ。それだけなのに、というか、それだけだからこそ、読者は想像力をかき立てられる。いうにいわれぬ不穏な空気が漂う。よく見ると、トランクを閉じるベルトが片方、外れかかっていたりするではないか。
という仕組みで、見開き完結の26話がある。26というのはアルファベットの数。Aから順にZまで26の「副詞」がフィーチャーされている。このトランクの話は16番目の「P」で、Presumablyという副詞が使われている。
エドワード・ゴーリーは「迷ったら、アルファベットをやる」という人だった(2000年、75歳で死去)ようで、ほかにいくつも文章と絵によるアルファベット・ブックを出しているが、なかでも本書は、訳者、柴田元幸が「あとがき」で書いているように「数あるゴーリー作品のなかでも屈指の傑作」である。
なんといっても、日頃は脇役的存在の「副詞」にスポットを当てたというのが、すごい。あてどなく、きもそぞろに、うかつにも、ねちねちと、しらじらしく、くらくらと、などなどページをめくるたびに、巧妙に選ばれた副詞が独特の絵と絶妙にからまって、雄弁に語りかけてくる。高尚な言葉遊び。
ただ、先のPresumablyという耳慣れない副詞を辞書で引いても「さっするに」とは出ていない。せいぜい出ていても「多分」「恐らく」といった程度。つまり、柴田元幸の訳があって初めて、われわれはゴーリーの世界を堪能することができるというわけだ。
そんなことを考えていたら、雑誌『Coyote』の2008年春号で、柴田元幸の特集をやっていた。題して〈特集・柴田元幸/文学を軽やかに遊ぶ〉。
なるほど、ゴーリーのこの『華々しき鼻血』も「文学を軽やかに遊ぶ」柴田訳がなかったら、これほど楽しめたかどうか。まことに訳者の存在は大きいといえる。
ゴーリーの本では、ほかに『ギャシュリークラムのちびっ子たち』『うろんな客』『優雅に叱責する自転車』などが、柴田元幸訳で出ている(いずれも河出書房新社)。
ゴーリーを「純文学」とすれば、同じやり口で「大衆文学」をやったグレン・バクスターの『バクスター危機いっぱつ』『バクスターの必殺横目づかい』(ともに柴田元幸訳、ともに新書館)があって、こちらも、ハハハ、楽しめる。
さて、気がかりな『華々しき鼻血』というタイトルだが、実はなんの意味もない。中身との関連もまったくない。ただインパクトがあるだけ。
が、よく見ると表紙カバー絵の端っこで男がひとり、岩の上で鼻を押さえて昏倒している。さらに裏カバーを見ると、先ほどの場所に犬が1匹、男が倒れこんでいた岩のあたりを嗅いでいる。うーむ、油断もスキもないのである。