フツウの夫婦ではないな…でもそういうカタチもわかるわ…という気持ち。
すごい愛憎劇だな…こりゃ、つかれるわ…という気持ち。
「僕と奈子」夫婦とその恋人「水野周造」の三人の関係は、精巧に作られた寄せ木細工のように、一つひとつのエピソードがぎっしり&みっちりと並び難解な図を形作っている。他人をも巻き込んで織り成す激しくも特徴的な模様には、読みながらここまで書くとは!という、ある種の感動がある。
というのも本書は、売れっ子脚本家・大石静さんの体験をもとにした私小説的色彩が濃いからだ。私小説としてのド迫力に圧倒される。
そういうことで舞台芸術家である「僕」と、女優志望から売れっ子脚本家へと成長する「妻」・奈子の物語は、のっけからフツウの夫婦とは思えない会話からはじまる。
「水野周造のことを奈子にうちあけられたのは、僕が一年間の在外研修を終えてニューヨークから帰国した日のことである。
成田の税関を抜けてロビーに出ると、人垣の後方で小柄な奈子がぴょんぴょんと飛び跳ねながら手を振っていた。
『おとうさん、あたし、また好きな人できちゃった』
まあるい顔をいっそうまるくして、奈子はうれしそうに僕を見上げた。」
奈子は夫のことを「おとうさん」と呼ぶ。呼び名が変わるにつれて関係性もかわっていった。結婚して七年、三年前から寝室も電話も別。
“いつの場合も相手とのあれこれを逐一相談するという一風変わった癖がある”妻・奈子。裕福な生まれ育ち、女優志望だったが悪性腫瘍という大病にかかり断念したこと、しかし舞台に少しでも携わりたいとはじめた製作の仕事、企画書かきが、“原稿を書くのが他の人よりも早くてうまい上、腰も低くて愛想も良いので仕事の依頼はひきも切らない”と、売れっ子脚本家となっていく様子も描かれている。
崖っぷちに立って自分の感情の際までを見ようとするかのような、極限まで追い込んだ状況は、まさに満身創痍の恋愛物語だが、しかしそこは脚本家。自身の熱烈な恋物語でさえ、俯瞰している。それを本書の語り手である「僕」=夫に語らせているのである。それが物語に柔らかな視点を与え、フツウならありえないような夫婦像をも「こういう夫婦の愛のカタチもあるよね」という奇妙な納得を生んでいる。
冒頭シーンで奈子が夫に告白した相手は60年代後半、テント芝居のスター的存在、演劇マニアなら知らない人はいない伝説の役者。しかし今や「水野周造か…いい役者だったけどな…いまどうしてんの?」「ああ、テレビでチョイ役で出てたよ」と言われる程度である。
神経症をわずらい、「オレにとって芝居が唯一世の中との接点だった」と語る周造は、幼児性と身勝手さを存分に併せ持つ。そんな周造に奈子は入れあげていく。
夫は奈子と一緒になってから賞を取り、仕事は順調。しかし一方奈子は現実と自意識の間で危うい均衡を保っていた。そのエピソードは脚本家・大石静を思わせるもので、私にはあまりにも印象深い。
俳優養成所時代の同期生がテレビで主役をやっているのを見たとき――突然震えだし、「自分はこの人と違って世の中から選ばれなかった人間なのだ」と、堰を切ったように激しく泣き出したり、夕食時に奈子の同い年の映画監督の仕事が素晴らしかったと興奮気味に夫が語れば、きれいに盛り付けられていた野菜サラダをボウルごと帽子のようにかぶり、頬には半分に切ったプチトマトが張り付き、ドレッシングが汗のように流れる。サラダをかぶったまま口だけで笑い、目でなくという分裂した表情をするなど…。