実に面白い本である。まさに驚天の書といえる。ミステリー小説より面白い、という褒め言葉があるけれど、最近はノンフィクションの方がはるかにミステリー小説をしのいでいる。もしこの先面白いミステリー小説が現れたら「ノンフィクションにも勝るミステリー小説」と言うべきだろう。この本は、並みのミステリーなんか、本当に足元にも及ばない。
偶然にも見つけ出されたイエスの棺が本物かどうか――。仮定の話としても、思考実験としても、もしイエスが実在し、十字架上で刑死し、墓に入れられたものの三日後によみがえり――として知られる新約聖書の物語も、この先変わっていくのではないかと思える話なのである。
蘇ったかどうかの真偽はこの際置くとして、では、死んだ後のイエスの遺骸はどうなったろうか、と考える人もたくさんいるだろう。何を隠そう、ぼくもその一人だ。
キリスト、とは、油を注がれたもの、という意味だ。その〈キリスト〉と呼ばれたナザレのイエスという男の一生は、その誕生が母親マリアの処女懐胎であるところからして、いくつもの奇跡に彩られている。そして彼の人生最後の奇跡が、死後三日目の甦りである。
生前、彼が布教したキリストの教えは次第に力を増していき、ユダヤ人の多くがその教えに従っていった。だが偶像崇拝をはじめとする古くからの宗教を信仰する人びとにとっては、新興のキリスト教は、異端の宗教そのものでしかなかった。ことにイエスが「ユダヤの王」とはやされるようになると、反キリスト教の声は高まり、人びとは時のローマ総統ポンテオピラトに直訴してこの「ユダヤ人の王」を処刑してもらうようにする。当初処刑に乗り気でなかったピラトも反キリストの声に押され、彼を十字架にかけることにする。
磔の刑で死亡したイエスは、その日のうちに十字架から下ろされ、洞穴に安置され大石で入り口を塞がれる。三日後、その洞穴を訪れた家族、母親のマリア、弟子のマグダラのマリアは、そこがもぬけの殻であることを知る。イエスの遺体はどこに行ったのか。肉体もろとも天国に召されたのか。それとも誰かが持ち去ったのか。なぜなら、自らを救世主と豪語するような男には、その死後、肉体を辱めようとする人間がいるものだからだ。隠したとしたら、それはどこに運ばれたのか。その死体が消えたからこそ、人々は不思議がり、魂だけが甦って人々の前になおも奇跡を起こしつづけるのだと、信じたのではないか。
死後のイエスはまさに幽体であって、締め切った扉をすり抜けたり、人びと満座の中に突如現れたり、磔にされた際に受けた傷――槍に刺された脇腹と釘付けされた両手両足の甲の傷跡に触らせたりもしている。もしイエスが、そのような霊的な存在として永遠の命を持つようになったとして、ではかつての心臓が鼓動し、肺が呼吸をし、胃液を分泌した現実の肉体はどうなったのだろう。肉体もろとも霊的存在になったのだろうか。それとも精神だけが肉体から遊離したのだろうか…。そのことは、現代の科学では推し量ることができない。だからキリストの謎として、永遠に語り継がれているのである。