「今朝、港で猫の死骸を見た。」
冒頭のこの不気味にして、なんともイメージ喚起力に満ちた一行で、読者は一瞬にして物語へと引き寄せられ、同時に足下に感じていたものが急に不確かになったような宙吊り感を味わうに違いない。小説にとって書き出しがいかに重要であるか、あらためて言うまでもないことだけれど,立ち読ミストのわたしには、これこそが購入動機の決定打であり、POPそのものとなる。いずれにせよ、読むことへのモティベーションがここで大きく左右することは間違いない。「ん?なんだ、なんだ?」と読者は思い、先が知りたくなる。というわけで,読者はさっそく先を読み進むのだが、猫についてはほんの数行記述があるだけでいったん終わり、「ぼく」がサスエロ村に着いた話へと戻っていく。息子をベビーカーに乗せ、この村へとやってきた「ぼく」は、ビアッジ家の人に会いにきたのだが、いいしれぬ不安から会うのを引き延ばしているのだ。ビアッジ家の門前まで行き、門の向こう側を覗いたり、郵便受けに自分が出した手紙を見つけて失敬してきたりする。まるで、カフカの「城」の逆バージョンである。
「城」は測量士Kが城主に呼ばれて、門前町にやって来たというのに、城門は閉ざされたままいっこうに開く気配すらない。一方「ためらい」は、ビアッジ家の訪問を「ぼく」のためらいによって引き延ばしているに過ぎないけれど、これも一種の「待機」、いわゆる一種の「ゴドー待ち」だと見ることもできる。
「ぼく」はなんとも煮え切らず、ベビーカーを押しながらサスエロの町を歩き回りながら、突然あの猫殺しの犯人はビアッジではないかと想像したりする。ビアッジ家の人々は門を閉ざしたまま、「ぼく」の動向を探っているに違いないという強迫観念に駆られて、「ぼく」はホテルの妖しい一室に忍び込んだり、ビアッジ家の門を乗り越え、邸宅に侵入を試みたりする。けれど、そこにあるのはがらんとした空間に残された気配だけであり、ビアッジの痕跡を探ろうにも手がかりさえ見つからない。
結局なにも起こらない。例によって改行は拒否/忘却され、会話には引用符(「」)すらなく、結局判明したのは猫の死の理由だけで、「ぼく」のビアッジ家訪問の理由も明かされぬまま、海辺の砂浜で燈台の光を眺める「ぼく」の姿で終わる。
ミステリーのごとく謎をまき散らし、サスペンスを漂わせながらも、ついには猫の死骸以外にさしたる死は現れず、犯人さえ存在しないという、究極の肩すかしを喰わせて終わる「ためらい」。トゥーサンのはじめての読者なら、いささか面食らうこんな設定も、旧知の読者なら、むしろこの肩すかしを楽しめるに違いない。
ミステリーという意匠を巧みに借り、読者に読むことのモティベーションを持続させながら、その結果、なにも起こらないという荒技を使った小説がもう一つある。
ポール・オースター「幽霊たち」(新潮文庫)である。スタイルこそ違え、この両者はとても類似点が多い。(「幽霊たち」については、こちらの書評をご参照いただきたい。)トゥーサンとオースターのどこが一番似ているかと言えば、それは文学の指向性である。カフカから受けたインスピレーションが二人の文学のベースになっていることは明らかだし、ベケットへのリスペクトとともに、ヌーヴォー・ロマンの影響を二人ともに表明している。
いうならば二人はカフカ/ベケットスクールの優等生であり、第二次大戦後の文学で、もっとも先鋭的に19世紀的な文学に異議申し立てをしたヌーヴォー・ロマンをどのように捉え、乗り越えるかを文学の出発点にしているのだ。