向田邦子は旅の思い出にトランプを買って帰ることが多かったという。『向田邦子 暮らしの愉しみ』(とんぼの本 新潮社)によれば、遺品からは、ブラジル、アルジェリア、フランスなど彼女が旅した国々のトランプがいくつも出てきたし、直木賞受賞直後には「受賞記念に」とアメリカで大量に買ってきたトランプを配ったらしい。
向田邦子自身が愛着を感じている“トランプ”に合わせるように書かれた『思い出トランプ』。カードひと揃いの枚数と同じ、13の短編が収められている。
本書収録の三編「花の名前」「かわうそ」「犬小屋」で直木賞を取ったのが51歳のとき。雑誌連載の途中で受賞するのは稀有なことだが、それほど見込まれた小説家としての才能は、残念ながら志し半ばで途切れた。
長生きしていたら、どんなものを書いていただろう。書き手として新たな一面も見せてくれたろうが、それでも本書は“小説家・向田邦子”の才気がほとばしる一冊だと思う。
主人公はみな40代、50代くらいの熟年にさしかかろうという男女。ふだんは働き盛りで元気にやっているが、肉体的な衰えを自分で感じ始めてもいる。だからこそ、過去の出来事や思いがふとした瞬間に甦り、強く彼らの心を揺さぶってくる。登場人物たちは「自分の人生はこれでよかったのだろうか」ととまどい、立ちつくすのである。
三人称語りだが、視点人物は男性だったり女性だったりが半々くらい。中でも、中心人物の女性が「私はいま幸せなのだろうか」と無意識に自問自答してしまうような「犬小屋」「男眉」「花の名前」は、ぜひ女性に読んでもらいたい短編だ。
「犬小屋」は、ヒロインの達子が、かつて自分に好意を持ってくれていた魚屋の若い店員「カッちゃん」と偶然同じ電車に乗り合わせたところからの回想で描かれる。達子の家の飼い犬の世話を口実に、カッちゃんは達子の一家と夕食をともにするほど親しくなる。もっとも、若かった達子は魚くさい青年の純朴な好意にはピンと来ず、しけった花火のような終わりが来る。
それから数年が過ぎて、ふたりは同じ電車の同じ車両に居合わせている。達子も二人めを妊娠していて、子連れのカッちゃんの妻も身籠もっているようだ。つましいながらも精一杯着飾って、家族の休日を楽しんできた様子が、達子の胸に突き刺さった。
達子の夫は麻酔医で、休日は寝てばかりいる。「そのうち」が延びに延びて、五歳の長男にまだパンダも見せていない。
「男眉」は、男まみえがコンプレックスの麻がヒロインだ。妹は地蔵まみえをしている。まみえとは、眉のこと。祖母は麻が幼い頃、お経のような節回しで、〈地蔵眉の女は素直で人に可愛がられるが、男眉に生まれついた人間は、(略)女は亭主運のよくない相だ〉と言っていた。
「男眉の女は亭主運が悪い」とは、根拠のあることなのかないことなのか。麻は、はっきりとした謂われがあるわけでもないのに割を食う自分を情けなくもあるし、本当かも知れないと思うほど夫とは相容れないものを感じてもいる。
思い出せば、麻は、幼い頃から何かにつけ、妹と比べて軽んじられてきた。中でもしゃくに障るのは、夫と妹の媚びを含んだような会釈だ。麻は昔から、お地蔵さまの“何を考えているかわからない油断のなさそうなところ”が好きになれなかった。地蔵眉の人間もまた同じ。自分は一生、そんなふうにはなれないだろうことが、麻にとっては寂しくもあり、実はささやかな矜持でもある。
ここでもまた、ヒロインの目を通して、夫と理解し合えない結婚がうら寂しいものとして描かれている。
「花の名前」は、結婚して25年になる夫婦の変わりゆく関係を描いた短編だ。夫の松男は結婚前、花の名前をほとんど知らなかった。理系学問一筋の無粋な男で、妻の常子が花の名前や日常のこまごましたことを教えると、そのつど聞き入り、感謝するようなところがあった。
ところが、流産を機に、ふたりの間に微妙な空気が流れ始める。常子のほうは習慣のように夫にあれこれ教えるのだが、松男は話半分にしか聞いていない。
ある日、常子が電話を取ると、夫の愛人からだった。ホテルのロビーで会う約束をした女の名前は、花の名前だった。
釈然としないまま遠回しに常子は夫を責める。その常子に、松男は「それがどうした」と冷たく切り返した。
夫にとって役に立ついい妻だと自惚れていたのは自分だけだったのか、と常子は悟る。「自分たちの結婚は何だったのだろう」と、常子は取り残されたような気持ちで夫の背中を見つめるのだ。
毎日毎日過ぎていく一瞬は、トランプのカードを切っては並べていく……そんな作業に近いと向田邦子は感じていた節がある。いい手札もあれば、予想外の1枚がもたらされることもある。それでも人は淡々とそのプレイを続け、禍福を飲み込んでいくのかもしれない。