ドラマ原作を集めたせいか、収められている三編は、向田邦子という作家の“陽”の部分が前面に出ているものばかり。ストレートに温かい作品集だ。
三編とも女性の結婚に絡んだ話である。女が幸福になるとはどういうことか、どうしたら幸せになれるのか。ここに示した世界は、著者なりのひとつの回答なのだろう。
表題作は、おでん屋を女手で切り盛りする砂子の、恋の顛末を描いたもの。
和子、信子という妹たちの面倒を見ているうちに婚期を逃した砂子は、父親が元気だった頃はOLをしていた。できるだけ水商売には染まるまいとしているが、酔客のあしらいがうまくなるにつれ、案外自分は水商売が向いているのだろうかと寂しく思っている。いまなら「自分のお店持ってるなんてカッコいい」と羨望を集めるところだが、物語の舞台は昭和。ふつうの女性は和子のように、主婦に収まるのが当たり前の時代だった。
砂子には結婚してもいいと思っている殿村という男がいる。仕事は、亡父が勤めていたのと同じ新聞社で、雑誌編集をしている。殿村も砂子に本気だ。まだ関係がないのは、身綺麗になって堂々とつき合いたいという砂子の気持ちを殿村が慮っているから。 殿村にはみつ子という妻がいるのだが、これが会社でも評判の悪妻らしい。あんな女房とは別れた方がいいと周囲も思っているし、殿村自身も別れたがっている。
ある日、店にみつ子がやってくる。持って回った言い方で自分は“殿村の妻”であることを見せつけるみつ子。殿村への恋慕をどこか後ろめたく感じていた砂子だったが、みつ子のいやらしさにうんざりし、少しだけ強く「奪ってもいいのではないか」と思うのだった。
この恋が決着するのは、殿村とみつ子の家に、砂子がおでんの出前をする場面である。そこで描かれる三者三様のキャラクターは、確かにこういう結末しかなかっただろうと思わせるもの。
砂子が殿村の家から店に戻ってくると、店には、おでんをつつきながらカウンター隅で飼われている金魚にえさをやっている常連客がひとりいた。金魚も眠るし夢も見ると教えてくれたその客に、砂子はつぶやくように言うのだ。〈「どんな夢を見るんでしょうねえ、金魚って……?」(略)「……あたしと同じ。あたしも夢を見ていたのかしら?」〉と。
「きんぎょの夢」というタイトルに重ねたはかない恋。顔に涙の跡を貼り付けながら、どこかさばさばした風情の砂子の姿に、「これでよかったんだよ、幸せになる道は別にあるよ」と声をかけたくなってしまうのは私だけではないはずだ。
女は後ろ暗い気持ちで恋を得てもダメ、祝福されてこそ幸せになるのだと、向田邦子は語りかけているような気がする。
結婚を祝福されるなら、女性としてはやはり母親に喜んでもらいたい気持ちがあるだろう。だが、自分を捨てて再婚してしまった母親なら……? 複雑な娘の思い、充分に役割を果たせなかった悔いを残す母の思いを、心憎いばかりに書ききっているのが二編めの「母の贈り物」だ。