作家として独立してからの20年間で1000本以上の作品を書き、直木賞まで獲ってしまうご本人の突出した才女ぶりのせいか、ミニマムに削ぎ落とされた文体のせいか、向田邦子作品を読むと、この人は人間を突き放して見ているなとひやりとさせられる。取り繕っても、そんな薄皮は遠慮もなく剥いで、登場人物当人さえ気づいていないような心理の裏側に、スパッと斬り込む。
その向田邦子が書く女性は、おしなべて可愛らしい。可愛らしいと言っても、人形のような従順さとは違う。いじわるをしたり毒を吐いたりもする。だが、それはすねていたり意地を張っていたりするからで、女ゆえのどうしようもなさが可愛いのである。
中でも、五つの短編が収録されている本書の表題作「隣りの女」は、女の可愛さが際立つ小説である。
ヒロインのサチ子は、2DKのつましいアパートで、「子ども待ち」の日々を送っている。〈化粧をしないせいか、二十八にしては生気がない。夫の給料をやり繰りして、食事の用意と掃除洗濯と内職で毎日が過ぎていくんだな、という実感があった。ときどき大きな溜息をついていることがあった〉。昔のモノクローム写真のようにくすんだ生活が見えるようだ。
壁越しに隣の声が聞こえてくると、サチ子は内職のミシンを踏むのを止め、壁にからだを張りつけて聞き耳を立てる。聞くうちに火照ってくる。
隣の部屋に住む峰子はスナックのママだ。部屋に出入りしているのは、現場監督風の男の他に、深い声と先細の美しい手を持った男。サチ子は、その響きのいい声の持ち主が、谷川岳へ向かう列車の駅名をそらんじるのにひどく心をかき乱された。
つきあい酒をして帰ってきた夫との会話は乾いている。サチ子は台所で蛇口をひねり、コップの水が溢れるままにして立っていた。サチ子は思う。〈豊かな、溢れるほど豊かな女もいる、からっぽな女もいる〉と。
日常に埋もれ、女として枯れていくような焦りが後押しした。サチ子は男と関係を持つ。一度きりの思い出にするつもりだったが、そうはいかない事情ができた。〈谷川岳にのぼってきます〉というメモ1枚を残し、サチ子は男を追ってニューヨークへ旅立つのである。
飛行機の中で、サチ子は井原西鶴の『好色五人女』の同じ箇所ばかり読む場面が印象深い。貞淑な妻として知られていたおさんが、手代の茂右衛門と手に手を取って道行きをする場面。おさんを自分に、手代を男に置き換えて。
一方、山登りもしたことのないサチ子の行動を奇妙に思い、夫の集太郎は「何か知っているかと思って」峰子のスナックを訪ねる。事の概略に動転した集太郎は酔いにまかせ、峰子の誘惑に乗りかけるのだが、すんでのところで踏みとどまる。
〈「これが結婚ですよ」
さすがに自嘲の笑いになった。
「不自由なもんねえ」
峰子も一緒に笑ったが、言葉が少し震えてしまった。
「でもちょっと素敵ねえ。口惜しいけど」
峰子の目に光るものがあった〉
ニューヨークの街と男に酔いながら、サチ子は三日めに、この一世一代の恋が自分の進む道ではないと気づく。峰子もまた、サチ子のささやかな幸せに敗北したことを認める。
ないものねだりをしてみたけれど、自分にとっての青い鳥が何だったかを噛みしめるふたりの女。踏み外すことはなかったのかもしれない。当てつけなんてやめておけばよかったのかもしれない。しかし、失敗してみなければ前へ進めなかった彼女たちの愚かさがいじらしく、愛おしくなる。
本書『隣りの女』には、華やかな姉を持つ冴えないオールドミスがやっと見つけた恋の相手が、いまなお少し、姉に惹かれていることに気づいた後の決意を描いた「幸福」、行き遅れOLの切ない恋の行方を、恋人らしき男と家族との関わりとともに記した絶筆「春が来た」ほか2編が収録されているが、いずれも粒ぞろい。
心理の機微、道具立てのセンス、簡潔なのに意味深なセリフ。そうしたディテールの妙に誘われ、ぐいぐい読まされる。日常の中のつまづきや地団駄や相容れなさが、五感を刺激しつつ目の前に立ち上ってくる。
著者の盟友だった久世光彦(故人)は、向田邦子には平凡な主婦としての幸せを半ば諦めているようなところがあったから、温かい茶の間の風景や、花一輪のささやかな幸せが見事に書けたのだと評している。
〈向田さんにとって、幸せを書くことはきっと寂しい仕事だったに違いない。〉(『触れもせで』より)
そんな寂しさを引き受けて遺してくれた数々の作品には、いつも著者本人とも重なるような、芯が強くて可愛い女の姿がある。