札幌のススキノ。「チャオ」という名前のスナック・バー。時刻は日付けが変わる少し前である。カウンター席に座るのは、男三人に女二人。クラス会の三次会で流れて来たこの店で、彼らが待っているのはかつての同級生だ。嵐ともいえる荒天のせいで、飛行機が遅れに遅れ、一次会にも二次会にも間に合わなかったその同級生を、彼らは待っている。これが、本書、朝倉かすみ『田村はまだか』の冒頭だ。田村とは、彼ら五人が待っている男の名前である。
物語は田村を待つ五人それぞれのドラマを綴っていく。小学校を卒業して二十八年。五人はともに、満四十歳。世間からすれば十二分に“いい年をした大人”である。けれど、その“いい年”だからこそ、もう若くないからこその彼らのドラマが、読み進めるうちに、じんわりと身につまされる。
池内暁は、化粧品・日用雑貨の卸会社の札幌支社に勤務するサラリーマンだ。ごくごくありきたりの勤め人の日々。彼のドラマは、パンダの着ぐるみを着てスーパーで販促物を配った時の話だ。あるミスを犯した彼に、池内が密かに憧れている、何事にも泰然自若としている会社の先輩、二瓶が言う。「一生懸命やったほうがいいよ。どんな小さいことでもさ。一生懸命って、普段からやってないと、さあやろうと思ったときにできないからさ」と。そう言った後で、できなくなっちゃうからさ、と付け足した二瓶は、薄く笑う。そして続けて、二瓶は言う。パンダの着ぐるみの格好のままで、クレームを寄越した家へ謝りに行け、と。ぼくはもう走れないんだ、だから、「全速力で走れよ、きみ」と。
池内は自分でも何故そんな話をしたのか分からない、と語る。でも、そのエピソードを読んでいる読者の胸には、ぼくはもう走れないんだ、とつぶやく二瓶の横顔がくっきりと浮かび上がるし、その言葉に何かを感じとった池内が、全速力で謝罪に走る姿が浮かぶ。
加持千夏は、男子校の保健室の先生だ。焼酎のロックで、心地よく酩酊した彼女が想いを馳せるのは、三年前に卒業した一人の生徒だ。「十九も年下の男の子に、自分だけの愛称をつけ、胸にそっと手を置くように呼びかけるのは、ばかげたことだ」と承知していながらも、千夏は彼を胸のうちで「キッド」と呼んでいた。恋にすら届かなかった、けれど、一瞬だけ「キッド」と確かに心が通ったその甘やか切ない思い出に、千夏はゆらゆらと酔う。酔いつぶれたもう一人の女の頭を撫でながら、「誰か、とても暖かいひとの手で、こうして頭を撫でられながら眠りにつきたい夜が、あたしにだってあるのよ」、とつぶやく千夏。もう若くはない女の、静かな静かな寂しさ。
生命保険会社で営業所長をやっていて、高給取りではあるが、童貞!の坪田隼雄は、ネットのブログで見つけたブルースターというハンドルネームの二十一歳の女の子に恋心を寄せ、酔いつぶれてカウンターで寝てしまった伊吹祥子は、一緒に店にいる永田一太と“できて”いた。二人が“できて”いた当時、祥子は結婚していたし、永田には妻と二人の子どもがいる。祥子は、永田との浮気が夫に知られて離婚した。
それぞれのドラマを抱えながら、彼らは田村を待つ。田村の思い出をぽつぽつと語りながら、自分の時間を巻き戻しながら。そこにいるのは、“いい年をした大人”ではなく、彼らが田村とともに過した、六年一組の暁であり、千夏であり、隼雄であり、祥子であり、一太である。だからこそ、彼らは田村を待つのだ。彼らにとって、田村は特別な少年だったのだから。
田村がどんなふうに特別な少年だったのか、果たして田村はやって来るのか、それは実際に本書を読まれたい。青春小説の傑作、という言葉に対抗して、中年小説の傑作、と呼びたい一冊、それが本書である。