「アメリカン・フォークロア・ミュージックの狩人」として、長年にわたってアメリカ国内の「フォークロア」を採取し続け、1950~60年代のフォーク・リヴァイバル運動を導いた伝説的な音楽研究家、アラン・ローマックスの選集が翻訳された。
このSelected Writingsの原著は、ローマックスが逝去した次の年にあたる2003年に出版されたものであり、彼がその60年にわたる活動の折々に書き残した論考、解説、序文、ラジオ・プログラムの台本などが、丁寧な解説とともに年代別に並べられ、ローマックスの幅広い、しかし一貫した、実にタフな思想と業績をたっぷりと味わうことが出来る本となっている。
アラン・ローマックスは、父親とともに、まだ10代のうちからアメリカ全土の「ルーツ・ミュージック」を収集する旅を重ねてきた。移民によって作られた、各国からの移民と輸入された奴隷と原住民とが歴史の中で折り重ねられながら形作られてきた「アメリカ」という国における、「ルーツ・ミュージック」とは何か? という問いはきわめて難しいものだと思うが、ローマックスはアメリカ各地で小さなコミューンを作って暮らしてきた「民衆」という存在を確かに掴んでおり、その具体性から決して離れない。彼は1941年に出版した『我らが歌の国』の序文において、彼がこれまでに出会い、記録することになった「民衆の中の歌い手」について、激しく熱意を傾けながら、このように書いている。
< …こうした歌手たちのほとんどが、貧しい人々、農民、労働者、受刑者、老年期の年金受給者、救助員、主婦、放浪中のギター弾きといった人たちである。この人たちはいまも作業歌、カウボーイ・ソング、海の歌、樵の歌、悪党のバラッド、また特定の職業やグループによって維持されているわけではないその他の歌を歌っている。この人たちは今日の新しい歌をつくっている人たちである。ギターを抱えて求愛し、自分たちのダンスのために音楽をつくり、自分たちの宗教のために自分たちの歌をつくっている人たちである。この人たちはものごとが起こっているときに立ち会っている人たちなので、ストーリーテラーである。この人たちはおおいに笑う人たちであり、大いなるうそつきである。なぜなら人生というものが、誰かが伝えたいと思っているよりはるかにばかばかしいものであることを、この人たちは知っているからだ。この人たちは死の意味を理解している人たちである。というのはこの人たちにとって、死は生涯にわたって身近なものであったからだ。この人たちは仕事上の事故で生命を引き裂かれた若者たちの顔を見ている。この人たちは不誠実な恋人に捨てられて自殺した少女を個人的に知っている。この人たちは、殺人罪で刑務所に送られた男の家族を保護している。この人たちは、ものごとが起こるのを待っているあいだに、意味の重い重たいジョークを言い、人がそのためにすすんで闘おうとしないようなものは、その人にとって真実ではないということを知っている。この人たちには言うべきことがたくさんあり、思い出すことがたくさんある。…>
この序文を書くまでに彼が収集した歌は二万曲を超え、ローマックスは、この文に続けて、彼が「個人的に知っている」民謡歌手それぞれについて、堰を切ったようにその思い出を語ってゆく。ローマックスが経験した「歌」の強烈な印象と、それを表現する彼の文学的感覚の確かさがここには溢れているが、しかし、このような「アメリカ各地の民謡」に対するローマックスの愛情は、おそらく、この時期からアメリカを席巻することになった、新しい形の「オール・アメリカン・ミュージック」の成立・流通に対する緊張関係から、育まれることになったものではなかったのか。ニューオリンズ発のダンス・ミュージックを白人ダンス・バンドが上手くアレンジした結果生まれた、「スウィング・ミュージック」の全国的な大ブームである。ラジオとレコードを通じて波及したこの新しいアメリカ大衆音楽は、それまでのポピュラー・ミュージックの大いなる統合であり、老若男女によって「これこそがアメリカの音楽だ!」と受け入れられ、流行歌のあり方を決定的に更新することになった。
メディア上で人工的に交配されることによって作られた「ポップス」と、各コミューンで、歌い手と聴き手の顔が見える場所で唄われ、受け止められる「フォークロア」。二〇世紀の「うた」を巡る、この二つの異なったコアの存在が、ローマックスの大いなる活動を推進させた隠れた起点ではなかったか、とぼくは思っている。彼が一九六〇年代以降に唱えることになった「計量音楽学」という学問の理念は、いまだにきちんと理解されているとは言いがたい。「ポップス」と「フォークロア」との間に立ちながら、文化の多層性に向けて思考を進めてゆくための大いなる糧が、アラン・ローマックスの仕事には残されている。