なんて濃いキャラクター。なんて濃い自意識!
数年前に『砂利』という劇を見に亀有のリリアホールに行ったのが本谷有希子という劇作家を知るきっかけだった。この劇には歌舞伎以外で坂東三津五郎が出演するし、また片桐はいりが出ている!ということでチケットを購入したものだ。
寝たきりの父親を看取り、過食症に苦しみながら砂利を敷き詰めた庭のある広い屋敷で暮らす主人公(三津五郎)、その兄の面倒をみる弟、身重の兄の恋人、のぞきが趣味の居候、箱を持った男が奇妙な共同生活を送る。
そこにひとりの女が訪ねてきて…という心理サスペンス。時折みんなが発作的に庭の砂利を、文字通りじゃりじゃりと踏みつけるという濃ゆ~い自意識過剰ワールドが繰り広げられていたが、正直、ちょっと、ついていけない部分もあったが、この脚本家の個性はびんびん伝わってきた。ついでに自意識も。
しかもこの脚本家が1979年生まれのまだ20代半ばの女性であり、その若さにして数々の賞を受賞している新進気鋭の脚本家であることを知り、びっくりした。
さらには自分で劇団を旗揚げしていること、「劇団、本谷有希子」その劇団団名に自分の名前を冠していること――などを知るにつれて、でも隠しても隠し切れない自意識過剰と、作品から漂う強烈さは、生きづらそうだなぁ~と、なぜかそんな心配をしてしまった。
本書は彼女の19歳のときの自伝的小説。「注目されたい」「違うと思われたい」――ほんたにちゃんの痛い勘違いがびっくりするほど空回りする。痛いけれども、しっかりと心理を描いているから、思わず何度も噴き出してしまう。
クリエイターを目指して石川県から上京、写真専門学校に入学したほんたにちゃん。学校では「新世紀エヴァゲリオン」のヒロインの綾波レイを気取って、無口な美少女を自己演出したり、いつでも「別に」とか言って近寄りがたい雰囲気を醸し出しては、そうした趣味の人から注目されたいとでも思っていたという、ちょっと痛い女の子。
しかしバレていないと思っているのは彼女だけで、周囲からはしっかり『寒いやつ』『勘違い』と相手にされない。
飲み会の席にカリスマ・イラストレーターがやって来ても、サインをねだらず横を向く。そしてなんと、そのカリスマ・イラストレーターにモデルになって欲しいと誘われ、内心、「やった!」と叫びながらも表では興味のないふりをして最初は断るという、なんというめんどくささ。
それでもチャンスを逃すかもしれないという不安にかられてカリスマに電話するあたりが、なんとも人間くさい。
モデルといっても裸になるのを嫌がりTシャツを着たモデルになって、妙なポーズで部屋に立ったり、スタンリー・キューブリックの映画なんて眠ってしまったのに見たふりをして受け答え。ビートルズなんて世代でもないのに知ったかぶりで生返事。底の浅さに中身のなさを見抜かれ見透かされて、「救いようがないね」と嘲笑を浴びてカリスマの部屋を後にする…。
悶絶するほんたにちゃんだが「キャラと実際の間に生じるギャップに引き裂かれては、はじめからギャップなんて作らなければ、痛みにのたうち回ることもない」…という境地にも達する。
本書は表現者である本谷有希子の原点であり、若き日の(といっても今も若いが)自意識過剰ぶりが心に痛いという人は、きっと多寡の差はあれ同類!?かもしれない。
でも一方で、戯画的というか、ちょっとユーモラスたっぷりに思えるのは、彼女の演技者としての意識が強いから?だろうか。自意識とは、演じることと近いしね。痛みあり、笑いありで、私としてはなぜだかちょっと切なくなった一冊。