『デザインのデザイン』。一見、軽妙な言葉遊びに思えるが、よくよく考えるとなんとも尊大なタイトルだ。デザインをデザインするなんて、よほどのことじゃないといえやしない。著者の原研哉はいまの日本を代表するグラフィックデザイナーであるからして、これくらいいっても構わない立場にいるのかもしれないが、それにしたって、ちょっと過剰すぎやしないか。読む前に、そう危ぶんだ。
これは、しかし、読みはじめてすぐに杞憂とわかった。まえがきの最初の行の「デザインを言葉にすることはもうひとつのデザインである」というとてもキレイな記述で、あっさりと納得させられてしまったのである。著者自身もタイトルを誤読する迂闊な読者の存在を予想して、機先を制したのかも知れない。本業同様、卒がない。
本書は、デザインの歴史や自身の代表的な仕事の経緯などを紹介しつつ、独自のデザイン論を展開するものとなっている。著者は美大の教授もやっていることから、その講義の内容などを流用しながら一冊をまとめあげている。いわば、つぎはぎ本の様相を呈しているわけだが、誠実な制作の現場からの視線によって貫かれているため、バラバラ感はない。しかも、デザイナーにありがちと思われる感性に流れる記述が少なく、どちらかというとシャープかつ論理的な文章で、どの章においても、きちんと納得を誘ってくれる。一般の人も楽しめるかどうかはわからないとしても、制作者、企業の宣伝部に勤務する人など、幾分かでもデザインに関心をもっている者にとっては、興味深く読めることはまちがいない。
論は、インターネット時代の美しいデザインの在り方や、視覚だけに頼らない心地よいグラフィックの在り方、さらには、デザインから考えるよりよいマーケットの在り方までへと及んでいる。どれも凡庸なクリエーターが語ると、非現実的な理想論に片づけられる可能性が高いものばかりだ。しかし、第一線級の仕事を数多く成功させている人が、実際につくった作品の写真を提示しながら語ると、強い説得力をともなって迫ってくる。
例えば現代の日本企業のこれからのブランドの在り方については、自らがアートディレクターとして関わっている無印良品の仕事を引き合いにだしながら、以下のように書いている。
『(無印良品は)「これがいい」「これでじゃなきゃいけない」というような強い指向性を誘発するような存在であってはいけない。幾多のブランドがそういう方向を目指すのであれば、無印良品は逆の方向を目指すべきである。すなわち「これが(がに傍点)いい」ではなく「これで(でに傍点)いい」という程度の満足感をユーザーに与えること。「が」ではなく「で」なのだ。しかしながら「で」にもレベルがある。無印良品の場合はこの「で」のレベルをできるだけ高い水準に掲げることが目標である。…(中略)…消費社会も個別文化も「が」で走ってきて世界の壁に突きあたっている。そういう意味で、僕らは今日「で」の中に働いている「抑制」や「譲歩」、そして「一歩引いた理性」を評価すべきである』
これは無印良品という特殊なブランドに言及してこその記述であるので、その分をさっ引いて読むべきだろうが、これからの日本にも経済の拡大や技術の進歩に支配されない魅力的なコミュニケーションの方向性がたしかにあるんだという気になり、勇気づけられる。
普通なら、グローバリゼーションの波にもまれ他ブランドとの切磋琢磨に窮々としているクライアントに対し、こんなことをいうと、ほとんど呆れられて終わってしまうところだ。だけど、そんなクライアントも一目おくであろう原研哉がいえば、事情はちがってくる。権威に頼る格好で申し訳ないが、もっとどんどんいいモノをつくり、もっとどんどん発言してもらいたいものだと思う。
ところで、この本の最後に近い第七章『あったかもしれない万博』は、それまでの章とはちょっと異質な内容となっている。他の章と同じく、独自の高度なデザイン論が展開されているわけだが、ここでは、当初著者が参加していた極めて美しい愛知万博のプロジェクトの概要が示され、なぜ、それが中止となったかという経緯も多少の恨み節調で語られていたりする。プロジェクト変更後に実現した愛知万博のみすぼらしさ、つまらなさを身をもって体験している者としては、ゴシップ記事に接するかのように、じつに興味深く読めた。そして、あったかもしれない万博を観てみたいという、あり得ない欲望を激しく募らせた。他の章を読み飛ばしても、ここは必読だろう。
自分の挫折まで例にだして理想のデザインを語ろうとする原研哉。『デザインのデザイン』というタイトルを誤読のままで読み進めても、さほど氏に嫌みは感じなかったかもしれないな、と思いながら読了に至った。そして、氏自らがデザインしたというこの本を、改めてレイアウトから紙質、インクののせ方まで、ためつすがめつ眺め、かつ触りながら、心地よい読後感に浸ったのであった。