オーストリア、チェコ、ハンガリー・・・こうしたヨーロッパの小国には、大陸という地続きならではの、大国の脅威にさらされてきた、きわめて不安定な歴史がある。こうした国々からは、したたかに生き抜いてきた、なんとも魅力的な小説家が不意に生まれてくることがある。アゴタ・クリストフもまたそのひとりである。戦時下、他国の占領下にある小国、双子の美少年たちが、田舎町の、魔女と呼ばれる老婆の家に、預けられた。双子の美少年たちは貧しさのなかで、ともすればさげすまれながらも、労働を覚え、かけひきに習熟し、賢くタフに、生き延びてゆく。そんな(戦時下の)成長物語である。
「ぼくらは、<大きな町>からやって来た。一晩中、旅して来た。おかあさんは、眼を赤く腫れあがらせている。彼女は、大きなボール紙の箱を抱えている。ぼくら二人は、衣類の入った小型の旅行鞄を一個ずつ提げ、父親の大きな辞書をかわるがわる抱えている。腕がだるくなると交換するのだ。」
そんなふうに物語は始まる、闇のなかに静まり返っている小さな町、ときどき軍用トラックが行き交う夜のなかを、母と双子の美少年たちがとぼとぼ歩いてゆく。
やがてぼくらは、寂れた小さな町の、はずれにあるおばあちゃんの家に預けられる。おかあさんとおばあちゃんは十年ぶりの再会、ぼくらはおばあちゃんと会うのははじめて。おばあちゃんは自分の娘(おかあさん)に憎しみを持っているようだ。おかあさんは、これまでおばあちゃんを疎んじてきた、その理由についておかあさんは言う、自分は父(=おばあちゃんの夫)を慕っていたから。(謎めいたほのめかし。過去にいったいなにがあっただろうか?)。おかあさんはおばあちゃんに渡す、双子のための敷布と毛布を、そして真っ白いシャツに磨き上げられた靴を。それを見ておばあちゃんはあざ笑う、「敷布と毛布? 真っ白いシャツに磨き上げられた靴??生きるってことはどういうことか教えてやろう、わたしがね。」ぼくたちはそんなおばあちゃんにベロを出す。おばあちゃんはいっそう嗤う。
おばあちゃんの家は、村のはずれのそのまたはずれにある。その先には柵があって、兵士が機関銃と双眼鏡を持って見張っている。ぼくらは知っている、柵の向こうには秘密の軍事基地があって、その先には国境ともうひとつの国があることを。おばあちゃんの家のまわりには畑があって、その奥には川が流れ、向こう岸は森だ。
おばあちゃんは、ほとんど話さない。もっとも夜は別。夕方になると、おばあちゃんは棚の酒瓶を取って、直接飲みます。やがておばあちゃんは不思議な言葉を話しはじめます、ぼくたちの知らない言葉を。それは、異国の兵士が話す言語でもなく、まったく別の言葉です。ぼくたちにはわけのわからない言語で、祖母は問い、答えます。ときどき笑い、怒り、叫びます。そしてたいてい最後には、おばあちゃんは決まって泣きだし、よろめいて、部屋に倒れこんで、すすり泣きます、その泣き声がぼくたちに聞こえてくる、夜のなかで。
町の人たちは、ぼくらを、魔女の子、淫売の子、バカ者、与太者、鼻糞小僧、阿呆、豚っ子、道楽者、ヤクザ、ごろつき、糞ったれ、極悪人、殺人鬼の卵、と、呼ぶ。ぼくらはまったく気にしない。そんな言葉では傷つかないように訓練したからだ。そのほかぼくらは生き延びるための数かずのエクササイズを自分たちに課す。殴り合いの練習をしたり、自分の皮膚にナイフをつきつけたりして体を鍛え、また、町中でわざとののしられるようなことをして、それに堪える強い心を育てる。物乞いの練習も。そしてぼくらは大きなノートを買って、読み書きを覚えてゆく。
この小説そのものが、双子が大きなノートに書いた文章である、という設定である。この小説『悪童日記』の原題は、"Le grand cahier(ル・グラン・カイエ)"=大きなノート、なのだ。
ぼくらは、記述について方針を立てた、「祖母は魔女に似ている」と書くことを禁じる、そうではなく、「人々は祖母を魔女と呼ぶ」と書くこと。「この小さな町は美しい」と書くことを禁じる、なぜなら、美しいとおもわない人もいるだろうから。「ぼくたちはクルミをたくさん食べる」と書く、しかし「ぼくたちたちはクルミが好きだ」とは書かない、なぜなら「好き」という語は客観性を欠いているから、同じ「好き」でも、「母を」「クルミを」では意味が異なる。(大事なことは)事実を忠実に記述することだ。