さて、そんななかソヴィエトの軍隊がチェコに侵入して来る。この事件はむろん悲劇なんだけれど、ただしクンデラはそれを「たんに悲劇であったばかりでなく、不思議な幸福感に満ちた憎悪の祭典であった」なんて書くわけ。こういうとこがクンデラの文学者としての凄みで、表現の奥行きを感じる。さて、テレザはこの歴史的瞬間の写真を大いに撮りまくる。こうして、ドンファン男と嫉妬深い妻の物語は、そして気の軽い絵描きの美女の、奇妙な三角関係の物語は、政治の惨劇とともに、おもいがけない方向へと転調し、それぞれの人生は、風にもてあそばれる木の葉のように変転してゆく。社会主義国家、怖いね。もっとも、運命がおもいがけない偶然に左右されるのは、われわれだって一緒だけれど。
さて、ここから先も物語は大いに展開してゆく、ま、続きはそれぞれ自分で読んでもらうとして、さて、この大作をいったいどう書評しようか。『存在の絶えられない軽さ』の原著は1984年。まさにクンデラがチェコスロバキアからパリに脱出し、チェコスロバキアの国籍も剥奪された時期の発表なんだ。それをおもうと、この一見ちょっとうざい、入り組んだ書き方のなかに、しかし、いかにも著者クンデラが、精神の崩壊寸前の危機を乗り越えて、もう一度、自分自身の精神を築き上げようとした必死の闘いが見てとれる。それにしてもクンデラは、プラハの春が蹂躙されるように終った後で、占領軍の政府に運命をさんざん翻弄され、悲惨な体験をかいくぐったはずなのに、この文体の軽さはどうだろう。この(意地でもの)軽さにこそ、クンデラの真骨頂がある。おれはそこに、「暗く悲惨な体験だからこそ、軽く羽のように書きたい。」というクンデラの意思を感じる。
では、仮にそうだとして、かれはなぜ羽のように軽い文体で書くだろう?その理由は、まず第一に、かれの資質があるだろう。また、中欧の小国ならではの実存の基盤の不安定のなかで生きてきた著者の、身についたアイロニーという部分もあるだろう。だが、さらにこんな理由はないだろうか? 著者はあまりに過酷な体験をし、それゆえ自分の体験をそのまま語ったところで読者の側に対応する体験があるはずもなく、したがって著者は、自分と読者の経験の質の大きな差を前に、表現方法の熟慮の挙句、けっきょく、軽さへの志向を貫徹したのではないか。おれはそんな解釈をしてしまう。もっとも、ほんとうの理由は誰にもわからない、われわれの前には、ただテクストがあるばかりだ。
さて、比較するに中国の(あの悲惨な!)文化大革命時代については、映画『芙蓉鎮』(1987年)以降、映画や小説で、それなりに厚みを持って語られてきた。他方、小説『存在の絶えられない軽さ』も、一方で、ドンファンで女たらしの男とおぼこで嫉妬深い女の悲恋、そしてそのドンファンと芸術家肌の美女との三角関係、(いや、正確にはもうひとりサビナの愛人で学者のフランツが出てくるから、四角関係)を描いたものである、と同時に、それは「プラハの春」とその終りを描いたレクイエムでもある。この小説は、書き方が凝っているから、一回読んだだけでは、かなりとっつきにくいだろう。しかし、2度めに読み返してみると、不思議なことに、物語がぐいぐい胸に染み込んでくる。あるいは、一度読んだ後で、映画版を見るのもいいだろう、(クンデラはこの映画版を不快におもったらしいだけれど、しかし)、無防備に横たわる女優レナ・オリンは伝えてくれる、サビナのお尻の夢のような美しさを。そしてその映像は、あなたをふたたび小説の世界へと連れ戻すだろう。
■ミラン・クンデラ(Milan Kundera, 1929年4月1日 - )チェコスロバキア出身。現フランス国籍。
ブルノ生まれ。プラハの音楽芸術大学卒業。長編小説『冗談』で(当時)チェコスロバキアを代表する作家となる。1968年の「プラハの春」では、改革への支持を表明。しかしソヴィエトのチェコスロヴァキアへの侵入の後、創作活動の場を失い、著作は発禁処分に。1975年、レンヌ大学の客員教授に招聘されるとともに、フランスに出国。1979年、チェコスロヴァキア政府は、クンデラの国籍を剥奪。1981年、フランス市民権を取得。前期の作品はまずチェコ語で書かれ、後期の作品はまずフランス語で書かれている。なお、クンデラは、チェコ語、フランス語のテキストに同じ価値の真性を認めているそうな。
おもな作品。
『可笑しい愛』(原著1958-1970年 集英社文庫)
『冗談』(原著1967年 みすず書房)
『生は彼方に』(原著1973年 ハヤカワepi文庫)
『別れのワルツ』(原著1976年 集英社)
『笑いと忘却の書』(原著1979年 集英社)
『存在の耐えられない軽さ』(原著1984年 河出書房新社刊)
『不滅』(原著1990年 集英社文庫)
『緩やかさ』(原著1995年 集英社)
『ほんとうの私』(原著1998年 集英社)
『無知』(原著2000年 集英社)