話は、著者が古本屋で日清戦争に従軍したある「軍夫(ぐんぷ)」の日記を手に入れるところから始まる。
軍夫だから、兵隊ではない。戦争の前線に物資を運搬する、いわゆる「兵站(へいたん)」を担う人間である。その軍夫が残した直筆の古びた日記は、なんと絵日記であった。しかも彩色。これらの絵のいくつかはこの新書のカバーと巻頭にカラーで掲載されている。
後日、著者は同じく日清戦争の前線で実際に銃をとって戦った上等兵の日記を入手する。2つの日記、前面とうしろ姿の両方から「戦争」を見つめながら、日清戦争と日本人、さらには日清戦争が昭和の戦争に落とした影までをも紐解いてみたい、というのが本書の企みである。
昭和の日中戦争における南京ほどには知られていないが、日清戦争の旅順でも同じような事件があった(両方なかったという人もいるが)。50年を隔てた2つの事件につながりはあるのかないのか、あるとすればどんなことなのか、それが本書のタイトルとなっている。ちなみに、なぜ旅順の事件が忘れ去られたのか、本書のそのくだりには説得力がある。
さて、本書の柱となる2つの日記だが、圧倒的に軍夫の絵日記の存在感が大きい。紋切り型の文語文で固められた上等兵の日記に対して、丸木力蔵という名の軍夫の書いたこの日記は、口語文と文語文が自在に織り交ぜられ、ひらがな、カタカナも気分次第、ある意味いいかげんなのだが、そのぶん一発勝負の現場感をもって迫ってくる。
そして絵である。江戸時代の文士のスケッチを思わせる筆絵は彩色され、緻密である。丸木は絵日記という手段で、初めて接する異国の風物や現地住民の生活、軍夫仲間たちの日常、現地住民を巻き込んで押し進む戦場のむごたらしさなどを生々しく活写している。
あるときは現地住民に同情の目を向け、あるときは自ら民家に侵入して豚肉を貪り食う。緻密な絵を残す繊細さと、凍りついた清国兵の死体を弄ぶ粗暴さの同居。丸木という男は、はたしてどんな人物だったのか、大いに興味をそそられる。日記の内容から東京出身だということはわかるが、いまのところ本書著者にもこの男の消息はたどれていない。
「拾う」が「しろう」になったり「これに」が「これい」になったり、船酔いで嘔吐する様を「小間物見世の仕度」と符丁でいったり、いかにも江戸っ子らしい軽妙洒脱さが、救いようのない戦場の風景を救っている。
そして、なによりも驚かされるのが、この日記の文章にはルビがふってあるということ。丸木はこの日記を他人に読ませるために書いたのである。
なんのために? それはこれから本書を読む人のために、伏せておかなければならない。