では、その人生計画は、いつ転落に向かっただろう?
まず、かれは文学の授業にも魅了され、詩を書きはじめていた。次に、折りしもジャズが、チャーリー・パーカーのホーンに拠って、自由と創造性の翼を手に入れはじめた時期、ケルアックはジャズに夢中になっていった。当時はまだ黒人に選挙権さえ与えられてない時代だった。
また、かれが大学にいた時期は、第二次世界大戦中、当時のアメリカは徴兵制だった。コロンビア大学にも、軍事技術研究所や、軍事教練センターができていった。学生も、ひとりまたひとりと兵役に就いていった。
そんななか、かれはフットボールで骨折し、コロンビア大学を退学してしまう!退学後かれは海兵隊と沿岸警備隊に応募し、結局、沿岸警備隊に勤めた。その後海軍から召集されたかれは、あからさまな不服従を示し、軍によって、精神病棟に放り込まれ、ほどなくして海軍を除隊した。
かれが23歳のとき、第二次世界大戦は終った。戦争にひとり勝ちしたアメリカは羽振りが良かった。大統領はアイゼンハウアー、テキサス生まれの陸軍司令官あがりのかれは、アメリカ人の所得を20%向上させた。と同時に、共産主義者を弾圧した。
第二次世界大戦中に、アメリカ経済の担い手は、中小企業から大企業に替わっていた。人々は「郊外にある、芝生の庭とプールのある家、自家用車2台の暮らし」を幸福の象徴として愛した。
だが、かれには、もはや小説を書く以外のどんな希望も残されていなかった。
いや、むしろかれは本望だったろう。
さいわいかれのまわりには仲間が集まった、魂を文学に売り渡したような連中が。
自動車泥棒のニール・キャサディ、作家のウィリアム・バロウズ、詩人のアレン・ギンズバーグ、ゲーリー・スナイダー、ほかにもたくさん・・・。
そう、ある種のコミューンめいたサークルが形成されていた。
『オン・ザ・ロード』は、1957年秋発表された。
『TIME』も『LIFE』も『マドモワゼル』もかれを取材し、メディアは、この、ダンガリーシャツにリーヴァイスのジーンズを穿き、ワークブーツを履いた新世代の作家に賛辞を惜しまなかった。テレビ出演、グリニッジヴィレッジでの朗読会、大学からの講演会の依頼。かれは、かつて1920年代のロストジェネレーションにおけるヘミングウェイのようなポジションとして遇されるようになってゆく。
その年、1957年ギンズバーグもまた告発した、「アメリカは物質主義に狂っている。警察国家アメリカ。かれらが世界を相手に擁護しようとしているアメリカは、ウォルト・ホイットマンの同志たちが讃えてきた、あの粗野で美しいアメリカではもうない!」そう、かれはアメリカを告発した、かれの詩集『吠える!』が、猥褻容疑で摘発されたことに対して。