ジャック・ケルアックの小説『オン・ザ・ロード』は、ろくでなしの若者たちが、クルマをぶっ飛ばして、ドラッグをきめ、女を抱いて、危なっかしくフリーキーな旅を続ける、ロード・ノヴェルだ。この小説のなかでは、ろくでなしが聖者になり、逆にツー・バイ・フォーの住宅群がロバの村に見える、望遠鏡を逆にしたような反世界だ。
さて、この小説がいつ発表されたかというと、1957年なんだ。(ま、ざっくり言って、サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』や、ナボコフの『ロリータ』の同級生である。)あらためて、この時代に、関心が沸いてくる。
そもそもジャック・ケルアックは、何者だっただろう?「ケルアックは、その後ヒッピー世代を生み、ロックンロールを変えた」、その伝説は、ほんとうだろうか?
1950年代のアメリカ、それはアイゼンハウアー大統領の時代である。強くてリッチなアメリカという幻想が生きていた時代。幸福の象徴は、郊外にある、芝生の庭とプールのある家、自家用車2台。「新時代のラジオ」としてテレビの普及が進んでゆく時代。映画で言えば、『雨に歌えば』『紳士は金髪がお好き』『ローマの休日』の時代である。
そんななかにケルアックの小説『オン・ザ・ロード』を置くと、あきらかに浮いている。誰もがおしゃれに着飾ったカクテルパーティのメンバーのなかに、ジーンズ姿のジャンキーが混じっているようだ。
もっとも、暗い目をしたジェイムズ・ディーンを輝かせた映画『理由なき反抗』や、セクシーに腰を振りながら歌うエルヴィス・プレスリーの登場もまた、1950年代の一部であることを忘れてはいけないだろう。
ジャック・ケルアックは、かれの生きていた時代のアメリカをどう感じていただろう?
そのときアメリカで、なにが起こっていただろう?
スティーヴ・ターナー著『ジャック・ケルアック 放浪天使の歌』を読んでみよう。
ケルアックは生まれた、ボストンの北のほうにある、東海岸の冴えない工場町ローウェルで、フランス系移民のパパとママのあいだに。(ローウェルには大きな河が流れていた、水車を利用して繊維工業が発達した町で、水車はやがてタービンにとって代わり、水力に蒸気の力が加わった。そして繊維産業のみならず、工業の町として栄えた。さまざまな国から労働者が集まった。煙突から吐き出される煙が、町の繁栄を象徴した時代である。もっとも1930年代には、ローウェルの工場は次々と閉鎖されていった。工業の発展とともに、工業の中心地もほかの都市に移っていた)。
ケルアックの父親は印刷会社を経営し、ちょっとした雑誌のようなものも編集していた。赤ん坊の頃のケルアックのただひとりの友達は5歳上の兄。かれの兄は病弱で、窓辺にやってくる鳥たちと話ができた。かれの兄はリウマチで日に日にやせ細って、9歳で死んでしまった。ケルアックは4歳。それ以降、かれの家は、暗さが垂れ込めるようになる。物悲しい工場町で、取り残されたコドモ、ケルアックの表情が目に見えるようだ。
かれは自分ひとり生き残った罪悪感と、死の恐怖から、読書にのめりこんでゆく。
フランス系カナダ人のコミュニティで育ったかれは、幼年期にはフランス語を話した。かれが英語を話すようになったのは、小学校に通うようになってから。
かれの家の経済は、必ずしも良好ではなくなっていった、父親の印刷商売は生きづまり、母親は靴工場に働きに行くようになる。他方かれは読書好きで、わけのわからない文章を書く少年でありながら、10代でフットボールの花形選手にもなっていった。タッチダウンするたびに、夢が近づいた気がした。やがてダンスパーティで知り合った女の子とのかわいい恋も体験し、そしてスポーツ入学で、ニューヨークのコロンビア大学に入学した。
コロンビア大学は大都会ニューヨークの名うてのお坊ちゃん大学、パパもママもさぞやよろこんだろう。もっとも、田舎の貧乏少年ケルアックはともすればいじけそうになったものの、しかしかれはハンサムで礼儀正しく、成績も優秀、フットボールの名選手、どこのパーティでも人気者になり、いまやかれは上流階級の入り口に招かれていた。そう、かれは弁護士を目指し、上流階級に入り込むはずだった。