読み始めてしばらくすると、あなたはきっとおもうだろう、この小説は、西部を夢見て、西部を探し、西部を求めて、西部へと旅する物語ではないか。
では、いったい西部とはなんだろう。
語り手である東部の文学青年サル・パラダイスにとって、西部とは、たんに(ミネソタからメキシコ湾に注ぐ)ミシシッピ川の、その向こう側ではない。かれにとって西部は、現実であって同時に「開拓時代の神話」であり、そしてそれは、輝く<アメリカのヴァージニティ>そのものであるような、場所であって観念であるような、そんな特別な存在であるようだ。なぜ、西部にそこまで無限の価値が付与されているのだろう? あなたは不思議におもうだろう。おれも不思議におもった、おそらくアメリカ人にとって、西部は西部開拓時代のアメリカそのものであり、<西部開拓時代のアメリカ>は無垢の輝きに包まれ、現代のアメリカが傷つくたびに、何度でも甦ってくるイリュージョンなのではないだろうか。
サルが西部を夢見はじめたのは、太陽の子ディーン・モリアーティと出会ってからだ。ディーンは、「ロスアンジェルスへ向かう両親がユタのソルトレイク・シティを通過するとき、ボロ車のなかで生まれた」。ソルトレイクシティとはロッキー山脈の西、いかにも西部を象徴するような場所ではないか。そう考えたとき、ディーンの出自じたいが、がぜん象徴的におもえてくる。しかも、移動中のクルマのなかで生まれてきたなんて、まさに、オン・ザ・ロードな出自じゃないか。
サルは、ニュージャージーの大きな大きな滝のある町パターソンで、西部開拓時代の本を読み、ブラット川とかシマロン川という名前を味わい、地図の上のルート6に、まだ見ぬ希望を感じて、胸をときめかせる。だが、カネのないサルは、西部にそうかんたんには行けない。ふたたびニューヨークへ戻りながらも、西部へのあこがれはつのるばかり。次の旅は、シカゴまでグレイハウンドバスで。そしてヒッチハイクをして、イリノイからアイオワへ入るとき、サルはミシシッピ川を見る。サルは感動を隠せない、「まるでアメリカそのものが自分の裸身を洗っているような、むっと鼻をつく、きつい匂いがした。」そして街路のひとつもないアイオワの闇に包まれ、サルは緊張し、そしてわくわくする。かれはうっとり夢想する、彼方の星空の下、アイオワの草原とネブラスカの草原の向こうに、デンヴァーが約束の地のようにのっそり立ち上がり、さらにその先に、サンフランシスコが夜の宝石のように姿を現すのが目に見えるような気分になる。物語はまだはじまったばかりだ。なにしろ西部は遠い。いくつもの川を渡り、いくつもの山を越えなければならない。『オン・ザ・ロード』は進む。
ジャック・ケルアックは、リアリズムというありふれた手法に、おもいがけない可能性を与えた。かれが物語を語り終えたとき、かれは(自動的に!)かれがアメリカの夢に捧げる膨大なインデックスをも作り上げていた。
ケルアックにこんなにも愛されて、アメリカはなんて幸福だろう、小説『オン・ザ・ロード』を読みながら、おれはつくづくそうおもった。『オン・ザ・ロード』はそれほど読みやすいわけでもないのに、刊行いらい半世紀にわたって熱狂的に愛されてきた。そう、『オン・ザ・ロード』は、世代を越えてアメリカ人に愛されている。いや、『オン・ザ・ロード』はおそらく、ここではないどこかを夢想する世界中の読者に愛されているだろう。ケルアックの『オン・ザ・ロード』を、読んでごらんよ。どのページを開いても、アメリカのさまざまな土地の名が呼ばれ、それぞれの土地がなんとも官能的に語られていることに、あなたはきっと驚くだろう。
余談ながら、出版社のヴァイキングは、出版50周年を記念して、2007年に、"On the Road: The Original Scroll" (Viking Press)草稿ヴァージョンとして、第1稿をそのまま本にした。