原稿を書くために読み返していたら、『ゴールデンスランバー』第四部の後半に初読時にはなかった文章があることに気づいた。最初のときは新刊書評のためにゲラをもらって読んだのである。おそらく再校以降に書き加えられたのだ。読者に気がつかれないなら気がつかれないでもいいようなちょっとした加筆ではある。しかし私はそこに、執念に似た作者の思いを見てしまった。『ゴールデンスランバー』は、伏線の敷設と回収を行うという作法が徹底された、非常に気持ちのいい娯楽小説だからである。小説の隅々まで、少しの粗も見逃すまいという作者の意志が行間から立ち上っている。
単行本にして五百ページを超える分量、結構な大作である。にもかかわらず間然とする部分がないので、緊張感を持続させたまま心地よい読書が楽しめる。いつもの伊坂作品のように、非常に抑制の効いた、端正な文体である。『ゴールデンスランバー』は、人物の動きこそ多いが愁嘆場や派手な立ち回りはそれほどなく、全体のトーンは非常に穏やかな物語なのだ。その穏やかさがいい、と伊坂ファンは言うだろう。うん、そうですよね。でもファン以外にも判るように説明しよう。冒険小説が穏やかなのが、なぜいいのかと。
一言でいえば、これはひとびとの小さな善意を信じる物語だからである。主人公は超人ではない。人並みはずれた体技の持ち主ではなく、優れた頭脳を備えているわけでもない。超兵器も持っていないし、取引に使えそうな極秘情報も握っていない。大組織の後ろ盾もなければ、恵まれた血筋の出でもない。ないない尽くしではないけれど、本当に何ももっていないのである。ご飯の食べ方も汚いしね(必ず茶碗に飯粒が残ってしまうのだ)。あ、彼女もいませんから。
そんな人物が、国家規模の陰謀に巻きこまれてしまう。仙台市内でパレード中に新任の総理大臣が暗殺されたことから物語は始まる。警察が青柳雅春という無職の青年を実行犯として断定すると、マスメディアは彼の過去をほじくり返し、青柳雅春がいかに犯人としてふさわしいか、という報道キャンペーンを開始した。そんな状況下で青柳雅春は一人逃げ回らなければならないのだ。切ないじゃないですか。RCサクセションの名曲「共犯者」の歌詞を彷彿とさせるような天涯孤独の青柳雅春である。
しかし、そこに救いの手がさしのべられる。必死で逃げ回るうちに、青柳雅春の無実を信じてくれる人が一人、また一人と現れるのだ。本書の二人目の主人公といえる樋口晴子も、その一人である。彼女はかつて青柳雅春と交際していたが「このまま一緒にいても絶対、『よくできました』止まり」で「『たいへんよくできました』の花丸」はもらえそうにない、という理由で彼を振ってしまったのだ。別れを切り出したきっかけがコンピュータ・ゲームの不気味な魚(たぶん『シーマン』だろう)に、『おまえ、小さくまとまるなよ』と言われたことだったというのが、可笑しい。樋口晴子はあることから元恋人の無実を確信し、彼を救うために奔走し始める。この「元恋人」という立ち位置が素晴らしい。青柳雅春を救ったところで、樋口晴子には何も見返りがないのだから。彼の支援者になる他の人々も同じで、ただ「信じるから信じる」のである。無償の善意、これですよ。
青柳雅春が冤罪の被害者だろうということは早い段階で明かされる。なぜ彼が選ばれたのか、その陰謀を企んだのは誰か、といった敵側の思惑が気になる読者もいるだろうが、作品の中でそれは不可欠としては扱われない。謎解きを目的とした作品ではないからである。むしろその「わからなさ」のほうが重要なのだ。正体不明の巨大な敵が、無辜の民を狙ってくるという恐怖を、伊坂は読者に味あわせようとしているのである。敵は国家そのものなのだ。
国家規模の悪意に、個人の善意が対抗する。伊坂はこの無茶な対立図式を成立させるために、ある魔法を使用している。それが、冒頭に書いた伏線の敷設と回収という手法である。小説の序盤で撒き散らされた、砕片と呼べるほど小さな要素が、物語が進行するにつれて大きな意味を持ち始め、青柳雅春の運命を左右する切り札として作用するようになる。あるいは、前半部で誰かが口にした何気ない一言が後半部でもう一度繰り返され、その言葉に思いがけない含意があったことが明らかになる。そうした小さな発見の積み重ねが、やがて物語の様相を大きく変えていくことになるのである。それぞれの要素は小さくても、それが一つにまとまることで事態を一変させてしまうような大きな力を持つこともある。そうしたレトリックが、個人の善意の集合が奇跡を成就させることもある、という物語の図式に重ね合わされているのだ。
暴力が個人を滅尽しようとする。それに対抗するものは善意や信頼といった非常にささやかなものである。穏やかな冒険小説と書いたのは、そういうことなのである。主人公にドンパチさせなくても、絶叫させなくても、冒険小説を書くことができるんだぜ。すごいじゃないですか、伊坂幸太郎って。